150人で妥結

 外務省は、旅券交付が政治問題へと発展する中、妥協案を提示します。斡旋に乗り出した元外相の有田八郎(1955年の東京都知事選の革新統一候補)との話し合いを経て、最終案だとして「150人なら旅券を出す」ことを7月12日に明らかにしました。

 外務省の方針転換は、7月10日に外相が岸信介から藤山愛一郎に交代※1したことが少なからず影響しているように思われます。代表団がモスクワに発った後の7月31日の衆議院外務委員会でのやりとりですが、友好祭の旅券を50人から150人へと三倍に増やしたのは「百害あって一利ない」「結局ソ連の宣伝にひっかかるだけ」と自民党の菊池義郎が批判したのに対して、藤山外相がこう答弁しているからです。

ソ連の青年友好祭に対する招待でありますが、これは私、民間におりましたときに見ておりまして、何と申しましても五百人という数字は常識上多いのじゃないかと考えておったのであります。しかし、同時に私は、日本の青年諸君が世界各国を見て歩くことは決して悪いことじゃないと思うのでありまして、行っていい点も見つけあるいは悪い点も見つける、それはソ連に限らず英米その他東南アジアでもそうだと思うのです。ただ日本の経済事情、外貨の事情、その他いろいろの事情がありますから、やはり適当な数にしぼっていくことはやむを得ぬことだと思います。そういう意味において、青年諸君の若干の希望は入れていくのが適当でないかという考え方を私どもはいたしております(『第26回国会衆議院外務委員会議事録第26号』)。

 先に述べたように、外務省は当初、最小限度の参加人数として「100名乃至150名」を考えていましたが、「政府上層部」の意向を汲む形で「せいぜい50名程度に制限」と決めていました。この「政府上層部」が具体的に誰かは不明ですが、新外相が「青年諸君が世界各国を見て歩くことは決して悪いことじゃない」「若干の希望は入れていくのが適当」と考えていたため、事態収拾を図るため、外務省の当初案だった「100名乃至150名」が再浮上したのではないでしょうか。

 「150人なら旅券を出す」との通知を受けて、実行委員会は7月12日夜に対応を話し合いますが、結局、拒否します。ソ連の出迎え船の新潟出港が18日まで延期可能と分かったため、さらなる上積みをねらって、13日から15日までの三日間、座り込みやハンストを行うことにしたのです。

 7月13日は外務省前に約250人がつめかけて路上に座り込みます。代表が藤山外相らと面会しましたが、「これはギリギリの線でこれ以上は絶対に出せない」と積み増しを拒否されます。午後2時すぎからは立ち退きの警告が何度も繰り返され、最終的に午後4時に警官隊が実力行使に踏み切り、30分ほどで全員が立ち退かされました。

外務省前の座り込み
座り込みの強制排除

ともに1957年7月13日 〔提供:朝日新聞〕

 この時の「ゴボウ抜き」の様子を戯作調で書いた人形劇団プークの古賀伸一の文章を引用しておきます(古賀伸一「鈴木巌氏のこと」)

鈴木巌氏は、おそいかかる警官をふり払いはねのけ、仁王立ちになると大音量で叫んだもんだ。

 「馬鹿野郎!なにしゃがんでえ。ゲ、ゲイジツ家の腕だぞ。ゲ、ゲイジツ家の指だぞ、なんだと思ってやがんでえ。あっ、ゲ、ゲイジツ家の爪を!畜生」

 しかし、すでにあたりは修羅場であった。

 白鳥の如きエレガンスのバレリーナは、早くも驚きのあまり失神して同僚の王子の腕に倒れ、また、生まれてこのかた警官とは道を教えてくれるひとだと信じて疑わなかった日本舞踊のおどり手も、その押絵から抜き出たような姿を、なんなく捕吏の手にとらえられ、着物以外は身につけたことのないという足もとを、いくらか手荒くみだされて、「あれー」と声を立てていた。

……

 〔友好祭に参加した〕鈴木巌氏の爪は見事にギターをかきならし、モスクワのコンクールで金賞を得た。かのエレガンスの白鳥嬢も、日本舞踊のお師匠さんたちも、多くが金・銀の賞を得た。……

 このあと予定どおりハンストが決行され、14日は浅草で署名活動(前述)、15日は首相官邸前でデモと、抗議活動は続きます。しかし、16日午前に150人の名簿を外務省に出さないと18日の新潟出港に間に合わないため、実行委員会は決断を迫られます。15日夜から断続的に会議が続けられ、16日午後になってようやく150人の受諾を決めました※2


※1 日ソ国交回復をなしとげた鳩山内閣の後を受けて1956年末に石橋内閣が発足したが、直後に石橋が病に倒れ、外相の岸信介が外相兼務のまま内閣を引き継いだ。57年7月10日に内閣改造が行われ、第1次岸改造内閣が発足した。藤山愛一郎は、財界の大物で、民間から外相に登用された。


※2 この時の決断に丸一日を要したため、代表団は開会式に間に合わなくなった。なお外務省は実行委員会に対して、150人の旅券はもらうが、残る350人については法廷闘争を行うというなら150人の旅券も出せないと警告し、実行委員会から念書を取っている(「文献資料」の「外務省の開示文書、開示請求番号2015-00464:3」参照」)。しかし実行委員会は8月8日に「外国に渡航する権利を侵害された」として提訴を決定。11月25日には、友好祭に参加できなかった178人が原告となって一人5万円の損害賠償請求の訴えを国に起こした。しかし東京地裁も、上告した東京高裁も、ともに実行委員会の主張を退けている(判決文は【東京地裁】 【東京高裁】)。