外務省の拒絶

 当時、外国へ行くことは、今はとは比べ物にならない大変なことでした。高度経済成長前の、まだ日本が貧しかった頃のことです。外国渡航の機会は、貿易会社の社員や留学生・研究者など、ごく一部の人に限られていました。

 そもそも渡航には、政府の渡航審議会と外貨審議会の許可が必要でした(海外渡航の自由化は1964年4月のことです)。渡航審議会は、外務・大蔵・通産などの中央省庁から審議官が寄り集まって渡航理由を審査する場です。貴重な外貨を使って渡航する意義を執拗に問いただしたといいます(「渡航審査会」でネット検索すると当時の苦労話がいくつも見つかります)。また、旅券(パスポート)も一回ごとの発給でした。

 友好祭の参加者500人の旅券申請に対して、外務省は6月12日に渡航審査会を開きますが、「500名というのは多すぎる」との意見が出て結論を保留。翌週19日の審査会で再検討すると、20日に実行委員会に対して旅券を交付できるのは50名だと回答します。とりわけ公務員、党員(共産党員)、学生(全学連幹部)については「旅券交付にあたって否定的要素が強い」と説明しました。

 外務省の開示文書は、この間の経緯を次のように記しています(「文献資料」の「外務省の開示文書、開示請求番号2015-00464:1」参照」)。

 500人参加の計画を5月中旬に耳にした外務省は、省内の関係局課や在外公館に問い合わせて情報を収集し、「催しの内容およびわが代表参加による外交上の影響等を検討」していました。そして実行委員会が参加者リストを提出してくると、関係省庁の意向を踏まえて「参加人数を最小限度(100名乃至150名)に止めるべきである」との意見をまとめます。その理由が、注目に値します。

1.本友好祭は表面世界各国の青年が平和と友情とを高揚するため各種の催しを行うことになっているが……共産主義宣伝の場に利用されるおそれが多い。
2.わが国はサンフランシスコ平和条約の示すとおり自由主義国家群に属し、これら諸国との提携協力を外交政策の基調としているので、わが代表参加についても関係諸国の態度とにらみ合わせ措置すべき必要がある

このように「自由主義」と「共産主義」との冷戦対立の現実を踏まえて、「共産主義宣伝の場」である友好祭に多数の青年を送り込むのは不適切だと見ていたのです。

 また外務省の検討段階では「100名乃至150名」だった参加人数は、「政府上層部」で「せいぜい50名程度に制限すべきとの意見が強」かったこともあって減らされ、6月20日の「50名程度ならば旅券発給」との回答になったようです。事務次官会議でも6月22日に「参加人員を50名程度に制限すること」、27日に「参加人員を最小限に止めその中に公務員、学生、前科者らを含ませない」ことを決定しました。

 外務省がこうした判断に至った背景をうかがわせる史料があります(「文献資料」の「外務省の開示文書、開示請求番号2015-00669:12」参照」)。

 1956年10月の日ソ共同宣言を受けて、同年末に日本とソ連の間に国交が回復しました。このため外務省は1957年1月14日付で邦人のソ連渡航に関する規定を見直します。ソ連渡航を理由とした旅券発給は認めなかった従来の姿勢を転換し、以後「本邦人のソ連渡航は原則としてこれを自由とする」「他の一般諸国への渡航に比し特に差別しない」と規定しました。ただしソ連渡航が「外交上又は治安上好ましくない影響を生ずることが比較的多かるべきことを考慮して、渡航手続に関する審査は特に慎重に取扱うものとする」ことを基本方針に掲げます。

 実際の運用については、「取扱要領」として、次のように定めました。

(イ)渡航申請を受理したときは、その都度治安上の問題につき法務省の意見を徴するほか、要すれば関係各省の意見を求め、その結果をまって処理するものとする。
(ロ)外交上も治安上もその渡航について疑義がないと認められるときは、ただちに、高裁案をもって、外務事務次官の決裁を得て処理する。
(ハ)外交上又は治安上好ましくないと認められるときは、旅券法第十三条の規定によって法務省と協議の上旅券発給拒否方申請人に通告する。
(ニ)……

注、重要案件については事務次官会議に付議する場合もある。

 友好祭の500人申請に対する外務省の対応は、明らかにこの規定を踏まえています。一度に500人もの大人数がソ連に渡航することを問題視し、とりわけ公務員、共産党員、全学連幹部の渡航に難色を示したのは「外交上又は治安上好ましくない影響を生ずる」と見たためでしょう。また渡航審査会だけでなく事務次官会議でも審議・決定していることから、この問題が「重要案件」と見なされ、外務省が神経を尖らしていたことが分かります。


旅券発給を所管する外務省移住局の渡航書記官が招集し、次の各省庁代表が審査に加わっている。文部省大学学術局学生課長、運輸省・郵政省・厚生省・建設省・大蔵省の各大臣官房人事課長、農林大臣官房総務課長、労働省労政局労働組合課長、自治庁長官官房総務参事官、総理府大臣官房調査室長、公安調査庁調査第二部第二課長、警察庁警備部長第二課長、法務省入国管理局入国審査課長(「文献資料」の「外務省の開示文書、開示請求番号2015-00669:13」参照)。各省の人事課長が数多く招集されているのは、友好祭の参加者に公務員が多数含まれていたからだろう。7月22日の事務次官会議でも公務員の参加人数が報告されている(「文献資料」の「次官会議資料 昭和32年7月22日」参照)。