渡辺浩子(1935~1998)

演出家。父は作曲家の渡辺浦人。
早稲田大学の学生劇団「自由舞台」で演出をはじめ、1959年に劇団民芸に入団。
1996年に新国立劇場演劇部門の芸術監督。

 お会いして話を聞いてみたかったと思うお一人です。ゴーリキーやチェーホフを自身の演劇活動の出発点にする大学生が、モスクワでいったい何を目にしたのでしょうか。

 1961年から63年にフランスへ留学したのを契機に、ソ連/ロシアから関心が離れますが、文化庁の海外研修員だった1978年にモスクワとレニングラードを再訪した際は、レニングラードのБДТ(ボリショイ・ドラマ劇場)の演出家トフストゴーノフの舞台に接して高く評価し、ヴァンピーロフの戯曲に心動かされます。「二十年前の活気は感じられない。前だってやはりスローペースではあったが、もっと社会全体が生き生きとしていた」と停滞の時代のソ連に居心地の悪さを覚えつつも、「演劇と人々とのむすびつき」の強さを物語る熱気あふれるカーテンコールの数々に感銘を受けたことが残された文章に記されています。

 新国立劇場の激務に忙殺されて早くに亡くなられたのが惜しまれます。

 友好祭に参加する頃の日記や紀行文は、没後に編まれた遺稿集『わたしのルネッサンス』に収録されています。ここでは、対談やインタビューで友好祭について言及した箇所を再録しておきます。

 あたしは早稲田の仏文でしたけどね、四年のときに、平和友好祭というのがモスクワでありまして、朝、新聞読んだら五百人学生が行くとなってた、五百人も行くならあたし一人ぐらい入れるんじゃないかと……(笑)早稲田の自由舞台という学生劇団で秋浜悟史さんの芝居を演出した直後だったんですね。「火の歌」といって、あとで「しらけおばけ」って、民藝で再演した、あの元の戯曲ですけどね。それで自由舞台にいって、「あたし、モスクワへ行きたいんだけど」といったら、文化団体連合会に申請して、都学連の代表になった。そしたら実際には記事のまちがいで、労働者、学生、農民、文化人とか、ぜんぶ合わせて、五百人だったの。しかも実際に行けたのは百五十人、それしか旅券がおりなかったんです。昭和三十二年の夏ですね。

 錯覚からはじまったんだけど、自由舞台は人数も多くて結束も固いし、アッという間に組織を作って、送る会をつくってくれたので、非常にバックがいいというので、ほかのところは代表団削るのに大騒ぎしたらしいんだけど、学生はすんなりきまって、結果、何人もいかなかった。十五人もいったでしょうかね。

 あのときはマールイ劇場とマヤコフスキー劇場にいって、そのときに岡田嘉子さんにもお会いしてるんですけど。はじめて外国へいって、世界各国から青年がくるわけでしょう。会合があったり、いろいろあるわけですよ。そのときにあたしは、あッ、これでヨーロッパ文化に触れられる、フランス人もくる、イタリア人もくる、イギリス人もくるというので、わくわくしていったんだけど、いちばん感動したのは中国人だったですね。ほんとうに若々しくて、国をつくってる勢いがあってね。それで「私たちの国ではこんどミシンを作るんです」なんて言う。ミシンなんて日本には昔からあるのになと思うんだけど、彼らがいうとステキなものができるみたいで、あたし、中国人にみとれちゃったんです。そしたら代表団のなかの文化関係者を中国に全員招待すると、シベリア鉄道通って……

 まだ中ソの仲のいいころ。そしたらこんどは文化人だけっていうのに、いろんなところから文句がでて、会議会議で大きい椅子で眠りこけているあいだに、ぜんぶ行かないということになってて、それ以来、はじめて杉村〔春子〕さんと一緒に一昨年中国へいって念願を果たしましたけれど、やっぱりあのときの感動と同じ感動を味わいました。それが外国文化に接したはじめてだったんです。

渡辺浩子「異文化にふれる」『悲劇喜劇』1985年7月号、20~21ページ

大学(早稲田大学)の自由舞台っていう学生劇団で入った1年生の時の最初の公演が『どん底』だったんですね。自由舞台っていうのは、ほとんどがチェホフとゴリキーやってたんです。あとは創作劇です。ゴリキーでいうと『どん底』『敵』、チェホフでいうと『桜の園』『ワーニャ伯父さん』。ゴリキーとチェホフというのは、わたしの一番のふるさとっていいますかね。もの凄い勢いでゴリキーとチェホフに夢中になっていまして、スタニスラフスキーシステムとかリアリズム演劇とか、学生時代にそこで散々ワイワイやった訳です。

……一番演劇に関わったのが自由舞台で、大学の四年の時にモスクワで平和友好祭っていうのがあったんですね。戦争の傷あとをなくして、もっと青年たちが世界で集まろうっていうんで、全学連、正式には都学連の代表で早稲田から行ったんです。全国で学生が二〇人足らずで行ったんですね。そこでモスクワ芸術座に行きましてね、階段を上がってこちらがわにチェホフとゴーリキーの写真こっち側にスタニスラフスキーとダンチェンコの写真を見て非常に感激したんですね。あぁ、モスクワ芸術座まで来たかと思って。わたし仏文なんですけどね。露文だと思われたんですね。資本論読む会まで入ってまして、だから民芸を選んで入ったんですね。

中川美登利「こんな人・あんな話 渡辺浩子」『テアトロ』1990年11月号、91~92ページ。