石澤二郎

第3回国際青年友好スポーツ大会 レスリング・バンタム級優勝者

 石澤二郎さんは、モスクワ友好祭と並行して開催された第3回友好スポーツ大会の日本代表でした。大学1年生ながら予選を勝ち上がって日本代表となり、オリンピックさながらの準備をして本大会に臨み、見事優勝を果たしました。加えてモジャイスキー号が寄港した新潟出身だったこともあって、多くの近親者や友人、地域の人々から盛大な見送りと出迎えを受けました。モスクワ友好祭の開会式にも観客として参加し、生涯忘れない経験として強い印象を受けています。

1. 生い立ち

 石澤二郎さんは新潟県新潟市の出身で、実家は青物商、五人兄弟の末っ子として、1937年5月25日に生まれました。元々体を動かすことが好きでしたが、レスリングに出会うきっかけは、この新潟という環境にあります。新潟はレスリングが盛んで、レスリングの強豪校がいくつもあり、何人もの日本代表選手を輩出していたからです。戦前ベルリン・オリンピックに出場し、後に東京オリンピックのレスリング日本代表監督、そしてレスリング協会会長をも務める風間栄一(1916-2001)が早稲田大学を卒業後、新潟に戻って高校でレスリングの指導を行っていたことが背景の一つでした。

 そんなレスリングの強豪校の一つが新潟明訓高校でした。ある時4才上の兄に誘われて石澤さんはレスリングの練習を見に行きます。娯楽としてレスリングを見ているうちに、「これだったら自分にもできるかな」と考えて、新潟明訓高校に進学しました。実家の手伝いをしようと夜間部に入学していたのですが、レスリングのために昼間部に入り直したのです。

 レスリングは現在もそうですが、階級別に分かれています。体が小さいから不利ということはなく、体格で劣る日本人にむしろ有利なスポーツとみなされています。「背が低い自分にもハンデにはならない」と彼が考えたのはもっともなことでした。

 実は石澤さんがレスリングを志したことにはもう一つ理由がありました。兄の同級生に笠原茂(1933-1990:1956年のメルボルン・オリンピック銀メダリスト)がおり、明治大学在学中に全日本選手権を制覇して、アジア大会にも出場していました。こうした笠原を始めとした先人の国際的な活躍を目にして、「これをやっていくと、オリンピックに出られる。外国に行ける」という意識を抱いていたのです。モスクワ友好祭の代表争いや旅券闘争に見られるように、当時外国に行くことは一種の特権でした。他方で代表クラスのスポーツ選手たちは、年に何度も外国に遠征しています。スポーツを極めることが国際経験を得るための近道だと石澤さんは考えたわけです。「それは私の夢だった。小さいときに、とにかく日本から脱出して、客観的に日本を見てみたいという気持ちが、ものすごく強かったんです」と石澤さんは回想しています。当然ながら家族や親戚に外国渡航の経験者はいませんでした。一方でレスリングの先輩たちは世界中を飛び回っていました。後藤すみ子さんを始めとした友好祭代表の多くが、外国に行けるチャンスがあるのなら行きたい、と考えていたことと似ているかもしれません[1]

2. 新潟明訓高校から明治大学へ

 石澤さんは、明訓高校のレスリング部に入部すると、たちまち頭角を現しました。1年目には県高校選手権で初優勝し(55キロ級)、高校2年のときには選抜大会、インターハイ、国民体育大会の3つをすべて制覇しています。1956(昭和31)年、すなわち高校3年のときには先輩の笹原の指導も受け、(年齢超過のために高校生の大会に出られず)大学の新人戦に高校生でありながら出場し、優勝を果たします。年齢的には大学1年生でしたが、実際には高校3年生であったことから、「高校生に負けるなんて」と出場した大学の部員たちが叱責されたほどでした。

 輝かしい戦績を残して、石澤さんは明治大学に進学しました。先輩が大勢いることと質実剛健の校風を慕ったのがその理由でした。当然のように推薦入学であって、優先順位は一番でした。しかし、入学直後は必ずしも良い戦績を残せません。春の新人戦は拓殖大学の安田選手に敗れました。5月の世界選手権予選でも高比良選手や島村選手に連敗して4位に終わりました(「月間フラッシュ 全日本学生レスリング」『明大スポーツ新聞』第45号(1959)、「話題さらった新鋭 レスリングの巻 石沢二郎」『日刊スポーツ』1957年12月5日付)。入学当初は、大学生選手として特に秀でた選手といえなかったのです。

3. モスクワ大会予選

 入学から少し経った頃、石澤さんも友好大会の存在を知りました。大会のレスリング部門への日本の参加は4月1日に報じられているので、おそらく上級生はすでにこれを知っていたことでしょう。ただ、様々な国際大会の一つ、という位置づけだったかもしれません。

 選考会は6月23、24日に東京青山のレスリング会館で開催されました。すでに述べたように、入学当初の戦績が振るわなかった石澤選手は下馬評では特に名前が上がっていません。注目選手ではなかったのです。彼自身「新潟から出てきた1年坊主が、そんな代表なんかなるはずないだろうというような感じだったと思います」と回想しています。

 これは新聞記事で確認できます。読売新聞の報道は、バンタム級について「〔エントリーしたのは〕八名で世界選手権三位の島村(慶)と寺田(明)が強く、これにOBになってから腕を上げた高比良(中嶋産業)や榊原(中)南(中)がからんでくる。腕力があるうえに対外試合を経験してきた島村に分があるが旅行疲れがとり切れているかどうか? 八田会長の長男(慶)も出場するが優勝まではどうか?」として6名の名を挙げながら、石澤選手にはまったく言及していません[2]。島村保行選手は、直前にイスタンブールで開催された世界選手権で3位に入賞しており、優勝の筆頭候補でした(世界選手権は6月1-2日に行われ、バンタム級で島村選手が、ライト級で阿部一男選手が3位に入賞しています。このときトルコがメダルを8つ、ソ連が6つ獲得しており、両国の存在感が顕著でした)。

 しかし、蓋を開けてみれば、「各級とも大激戦」となりました。バンタム級の島村は「不調で一敗一引分の後棄権」」、「石沢はクジ運にも恵れて決勝リーグの最終戦に判定で負けても優勝ということになった」。最終日を待たずに石澤選手は優勝を決めたのです[3]。2日目を終え、最終順位は、1位石澤、2位榊原、3位高比良でした。石澤選手は、大学1年生ながら、晴れて国際大会の日本代表になったのです。

 6月25日付の新潟日報は代表となった選手たちの略歴とコメントを掲載しています。石澤選手の略歴には「明大商学部一年、明訓高出。三十年国体高校五十五キロ級一位、三十一年秋大学新人戦バンタム級に出場一位。得意はスタンドのひねり技」と述べられ、高校生時代の大学新人戦での優勝にも触れていました。石澤選手はコメントとして「不戦勝が多く幸運だった。ことに優勝候補の島村選手が胸を痛くして出なかったのでチャンスが生れた。ソ連へ行けたら投げ技を学んでこようと思っている」と述べています[4]。当時を振り返って石澤さんは、代表に選出されて「ものすごくうれしかったですよ。よっしゃ。これでソ連のモスクワに行けるわという感じで。夢かなったかなという感じで。客観的に日本を見ることができるな」と回想しています。

4. オリンピックさながらの渡航準備

 興味深いのは、出発前の準備です。代表に決まってからは、オリンピックと同様に代表選手にふさわしい装いと振る舞いのための準備が始まりました。基本的には寄付と手弁当である友好祭代表とは違って、友好スポーツ大会の代表選手は、ブレザーを始めとして、荷物の大部分が支給品でした。石澤選手が日程と持参品をまとめた詳細なメモを残していますので、それを以下にご紹介しましょう。

・7月2日 午後二時 パスポート

・7月3日 サイトウスタイルでカリヌイ〔仮縫い[5]

・7月12日 結団式

・7月15日 午後7時30分 体協集合

                     午後9時30分 上野駅発

                     午後3時15分 新潟着

                     田中屋旅館 (二)二九一二〔電話番号?〕

                     県、市のパテー〔パーティ〕

・7月16日新潟港出発[6]

                   ↓ 船

                   ナホトカ

                   ↓ 汽車

                   ウラジオ〔ストク〕

                   ↓ 飛行機

                   モスクワ

試合用具 パンツ、トレーニングパンツ、シウーズ、サポウター、

ナワトビ、白靴下、バスタオル

その他、靴下

ブレザコート、ズボン二本、Yシャツ二着、下着、セーター、

スリッパ、パジャマ、クツミガキ、化粧石けん、洗濯石けん

洗濯ハサミ四ツ、レ〔イ〕ンコート、フロシキ、ノート、パン、エンピツ

荷物は一八キロまで

 

ここには記述されていませんが、6月29日には「訪ソ日本代表送別試合」として「アマチュア レスリング大会」が北区赤羽小学校の校庭で開催され、石澤選手は日体大の柴田護選手と対戦しています[7]

 7月8日からは中央大学レスリング道場で直前合宿が行われました。トルコ、イランの不参加や「フライ級の諏訪、バンタム級の石沢、フェザー級の矢田、ライト級の大倉らの海外遠征は初めて」だったことから、ソ連選手への対策に重点が置かれました[8]。戸張監督は新潟日報掲載の談話で「トルコ、イランなどの強国が参加しないので相手はソ連だけ。ウェルター級の兼子以下の軽量級は全員三位までに入賞、金メダルを取れるでしょう」と期待を述べています。これはほぼ達成されました。他方、最年少の石澤選手自身は「大学に入ってまだ四ヵ月しか練習してません。それに外国選手とも試合をしたことがないので不安だが、日本でやっているつもりで気楽にやります」とコメントし、「初のヒノキ舞台をなんとも思っていないような口振り。体が柔かく、スピードがあり、思い切った業をかけるので新人とはいえ大いに有望」と評されており、リラックスして臨むことができていました[9]

 10日には外務省から62名全員に旅券が発行されることが伝えられ(最終的な渡航者は61名)、7月12日には結団式と壮行会が行われました。この時、戸張監督は石澤について「バンタム級は傑出した選手がいないから、新人とはいえ石沢は練習より試合に強いので望みが持てる」と期待を寄せています[10]

 恐らくこの頃のことでしょう、アマチュア・レスリング協会の会長・八田一朗(1906-83)に連れられて、西洋式の食事に慣れるため、レストランに行き、ナイフ・フォークの使い方から、スープの飲み方まで、指導を受けたと石澤さんは言います。「厳しい指導で、今も身についている」そうです。なお、友好祭の代表団が旅券闘争のさなかですが、代表としてモスクワに行けることで「舞い上がっていた」石澤さんは記憶にないと言います。

 15日、スポーツ代表団は予定通り午前9時30分発の急行「佐渡号」に乗車します。石澤さんの日記によれば「国鉄がストライキをやっており」一時間ほど遅れて新潟に着きました。選手団の新潟入りは新潟日報で詳述され、石澤さんを含めて新潟県出身の選手4名の存在も記述されています。「国鉄闘争のため五十五分遅れて着いた急行「佐渡」から選手たちが紺の背広、胸に日の丸、グレイのズボンといったスマートな姿を見せると、ダイヤ混乱で重苦しい空気のただよっていた駅頭も一瞬明るい表情を取り戻した形だった」と、その華やかな雰囲気を伝えています。東団長は「スポーツの世界はイデオロギーを超越した世界だ。〔…〕ソ連スポーツ界が最近驚異的な発展をとげているので、モスクワでは他の国の技術を学ぶとともにこれほどの発展をしたソビエト・スポーツのあり方を中心にみてこようと思う」と抱負を述べています[11]

5. 代表団とモジャイスキー号:新潟での歓待

 友好スポーツ選手団もモジャイスキー号に乗船し、ナホトカまでの海路とハバロフスクまでの陸路を友好祭代表団と同行しました。石澤選手の場合で特筆されるのは、すでに記したように、彼がレスリングの盛んな新潟出身であり、しかもこの年3月まで新潟明訓高校の生徒だったことから、盛大な見送りと出迎えを受けたことでした。その模様は特に新潟日報でとりあげられています。

 モジャイスキー号が新潟港に入港したのは7月16日のこと。読売新聞が「地元労組、青年団体など、代表約200人の歓迎を受けた」と簡潔に記述しているところを[12]、地元の新潟日報は「ふ頭には県実行委員会、県労協さん下の団体、県知事(代理)市長(代理)歌声グループ、日ソ親善協会など五百余人がにぎやかに出迎えた」と(より)詳しく記述しています。

「インター〔ナショナル〕、トロイカなど合唱が起り、歌声による歓待がはじま」り、「船上と岸壁ではそれぞれお国の民謡を歌い合うなど歌声で満ち、拍手の嵐がその間をつづった」と友好ムードも伝わります。特に興味深いのは副船長の挨拶です。副船長は「これを機会にますます平和のための闘い、原爆反対のための闘いを日本の青年と手を携えてやるとともに、お互いの親善関係を深めて行こう」と述べていますが、これこそまさしく友好祭の理念でした。日本の報道は友好祭とスポーツ大会を別物として紹介することが多く、そうした側面がなくはありませんが、同乗する船で両者を切り離せるわけもなく、平和と友好という共通の理念の上にそれぞれの代表が乗船していたわけです。

 さらに、新潟日報の記述からうかがえるのは、港での国際交流が代表団・選手団を超えて、広くここに集った市民にも共有されていたことです。モジャイスキー号は16日から19日まで新潟港に停泊しました。これだけの客船を見るのが初めてだったこともあるのでしょう、「新潟市民の関心を集め、港の人気者」でした。「上陸したソ連船員や接待役の婦人たちの行動が、アメリカ人やイギリス人とは一種違ったご愛嬌となり、市民の微笑をさそったようだった」。「ソ連の船員や婦人たちはそろって愛想がいい。一様に堅い表情でムッツリしてみえるのにしゃべりだすと急にニコニコして愛嬌をふりまく」と評されています。こうした観察は、「冷たい」対「お人好しのロシア人」というよくある二分法を想起させるもので、市民たちが持っていた、そして記者にも共有された、イデオロギーからくる先入観のない、率直な眼差しを見出すことができるでしょう[13]

 友好祭代表の旅券闘争がギリギリまで続いた結果、出発は最終的に7月19日となりました。このため選手団一行は新潟市内の田中屋旅館に宿泊して出発を待ちます。これは石澤選手に幸いしました。時間に余裕ができたため、実家に二泊して、母校の明訓高校で練習を行いながら、乗船を待つことができたのです。17日には合流して田中屋旅館に泊まり、選手団はバス2台で新潟港に向かい、午前8時から税関手続きを行い、友好祭代表団よりも先に、9時半に乗船しました。これに合わせて午前9時から「北村知事らが出席して盛大な壮行会が開かれ、選手やこれを見守る体育団体、家族、ソ連船見たさにつどった人たちなどでごったがえし[14]」ました。

石澤選手自身、地元の高校を卒業して半年も経たぬうちの渡航に「身内も親戚も、何てことだって感じで。何モスクワまで行くのかって。あそこの次男坊がというような感じで。すごい。垂れ幕とかすごかったですよ」と盛大な送迎だったことを回想しています(写真)。読売新聞新潟版は石澤選手の父の言葉として「父清作さん(六〇)は町内会の人たちに囲まれ「はじめての外国行きなので心配だ。しっかりやってきてもらいたい」とはげましていた」と伝えています。加えて、スポーツ大会代表団は「万歳のアラシで」、友好祭代表は「インターナショナルのとどろくなかを乗船した」と、対照的に評しています[15]

6. モスクワまでの道中:友好祭との同居と相違

 単にモジャイスキー号を見に来た人もいたその豪華客船について、石澤さんは「生まれて初めて」乗った「こんな立派な船」と称えています。その一方で船内の様子については、「パンはかたく味がな」いこと、石鹸は「非常に悪く魚の油で作っているのか匂いが悪い」ことを率直に指摘しています。すでに述べたように、この船内には友好祭と友好スポーツ大会という2つの代表団が乗船していたわけですが、彼らの間には明確な待遇の違いがありました。イデオロギー色があるとみなされた友好祭は旅券闘争を余儀なくされた一方で、スポーツ大会はイデオロギー色はないとみなされ、旅券は申請通りに認められました。船内でも、友好祭代表が一番下の大部屋でしたが、スポーツ代表団は上の階の二人部屋でした。ハバロフスクまでのシベリア鉄道も同じ列車でしたが、スポーツ代表の2段ベッド4人部屋に対して、友好祭代表は6人部屋でした。これらの道中、石澤さんはロシア人通訳の助けをかりて簡単なロシア語会話表現を身につけるよう努めていました。スパシーバспасибо、バジャールスタпожалуйста、マースロмасло、クラシーヴァヤкрасиваяといった単語を今日も覚えていて、聞き取りの際に披露してくださいました。

 ナホトカだけでなくハバロフスクでも大歓迎がありました。「岸総理がアメリカに行ったときのようだった」と石澤さんは形容しています。ここからスポーツ代表は全員飛行機でモスクワに向かいました。友好祭代表団は、先発組をのぞいてシベリア鉄道乗車が続きましたので、ここでも明らかな待遇の差がありました。石澤選手は4機のうち最初の1機に搭乗していました。生まれて初めての飛行機で、日記には「広大な草原」など、景色について多くの記述があります。「上空から下を見ると箱庭のようで草原はじゅうたんで森林はモグサのようである」「川は帯のごとく思いのまま流れている」と広大な自然が描写されています。

「チタの街を上空で見ると真珠を散りばめたようで非常に美しい」と夜景も率直に讃えています。一方、機内にはシートベルトのようなものはなく、不安を感じさせました。またスチュワーデスは愛想がなく、聞かれたことしか話しません。モスクワまでは給油と食事、トイレ休憩のために幾度も着陸がありましたが、給油地のトイレがあまりに臭くて、途中で用をたすのをやめたこともありました。経路は石澤さんの日記によれば、マグダガチ(アムール州)、チタ、イルクーツク、クラスノヤルスク、ノヴォシビルスク、オムスク、スヴェルドロフスク、カザンで、22日午後モスクワにようやく到着しました。カザンでは「この街だけでなくこの国の人たちは、実によく歌を歌い所かまわず踊りだすといった明るさを待っている」という興味深い観察を残しています。こうした歌う国民の姿は、シベリア抑留者の高杉一郎や音楽家の井上頼豊が記している描写と合致するもので、映画《シベリヤ物語》を通しても当時の日本人に知られたものでした[16]

7. 試合開始までの日々と開会式

 モスクワの宿舎はモスクワ大学の寮でした。いわゆるスターリン様式の巨大な建物です。石澤さんは「そこは日本で見ることができない立派な建物」で、「食堂は立派で明治〔大学〕の食堂とは比較にならず」と日記に記しています。やはりオスタンキノ・ホテル住まいの友好祭代表(五人一部屋でシャワーは地下の共用)とは格差があり、諏訪選手の指摘ではバス・シャワー付きの二人一部屋でした[17]。友好祭洋舞代表として訪ソした薄井憲二氏の回想では友好祭の食堂ではイクラが出たのは一回だけですが[18]、スポーツ代表はビュッフェ形式の食事に毎日キャビアがあったそうです。

 7月24日には夕食後に矢田選手の誘いで街に出てみました。初めての個人的な外出でしたが、さっそく迷子になってしまいます。宿泊先のモスクワ大学に帰ろうとしましたが、場所をうまく伝えられません。トロリーバスに乗るよう言われて乗ってみたものの、大学に向かわないため、一旦下車すると人だかりができます。中から一人の美しい女性が出てきて、矢田選手にペンと手帳を渡しました。そこでMoscow Universityとローマ字で書いたところ、大学に向かうバスを指差してくれて無事帰ることができました。「街は非常にきれいでゴミはなかった」ことも石澤さんは日記に書き留めています。

 日本選手は25日から本格的な練習を始めました。「日本チームの人気は体操とレスリング競技に集まり、練習場は賑やかだ」と新潟日報が報じています[19]。この日宿舎ではオリンピックさながらの入村式が行われ、入場行進の練習が始まりました。行進練習をしていたのは日本だけだったそうで、国民性を見ることができるかもしれません。

 ちょうどこの頃、石澤さんは新潟日報へソ連滞在記を送っています[20]。赤の広場周辺の繁華街について「まず目立つのは人手の多いことです。東京の繁華街以上の人手で、しかも朝から夜中まで人通りが絶えないそうです。軍人と警官が多いのはこの国がいかに軍備と警戒に準備しているかを物語っています」との印象を綴っています。また、ソ連時代の買い物の煩雑さに触れています。「まずは買いたい品物を決めるために商品陳列場の前に列を作り、そこで品物を見さだめ、値段を聞き、こんどは現金係の前に順番にならび、品物の名と数量をいって現金を支払い、伝票を受取る。そして再び品物陳列場にならんで伝票を渡し、品物を手に入れる仕組みになっていますから、買い物には三度列にならばねばなりません。/したがって、買い物には早くて七八分、長ければ一時間近くかかります。やはり日本が一番住みよいようです」。外国から日本を見ることができた瞬間だったのではないでしょうか。

 7月28日の友好祭の開会式には、石澤選手たちはバスに乗って観客として参加しました。代表団がグラウンドに入るのに2時間以上かかり、「驚く程の人数」で、続く体育大学の学生によるマス・ゲームが「目を見張るようなすばらしい体操」だったことを日記に記しています。後日の回想では改めて開会式を讃えて、「平和友好祭の開会式ほど、私の心を打ったものはありませんでした。世界中から集まった何万という人たちをモスクワ市民が迎え、口々に「平和と友情のために」と叫ぶ姿を見て、これだけの人々の熱意があれば決して再び戦争は起こるまいと思えたものでした」と述べています[21]。半世紀以上たった今も鮮明な印象が残っているようです。一方で部屋に入って寝につくときには、「日本のことを考え愛国心があることをはっきり自分で知ることができた」と日記に記してもいます。

 スポーツ大会の開会式は、友好祭の開会式の翌日に行われました。その模様はニュース映画として日本にも伝えられ、読売新聞も報道しています。「モスクワの青年スポーツ大会は、まったくすばらしい。レーニン・スタジアムのグラウンドいっぱいに、機械以上の正確さと迫力を備えたソビエト青年たちのマス・ゲームがくりひろげられる。年ごとにその規模は大きくなり、趣向も深まっているようだ」。石澤選手も「目を見張るすばらしさと美しさであった。二度と見ることができないと思うほど、日本ではとうてい足元にもおよばないだろと思った」と日記に記しています。田中選手や諏訪選手の談話もそうですが[22]、当時はマス・ゲームを全体主義の象徴と見るような否定的な眼差しはありませんでした。

 スポーツ大会は最終的な参加が46カ国、4,146名でした(第1回は35カ国約3,200名、第2回は37カ国約3,500名)。種目は男子23種目、女性14種目、審査員は外国から185名が招かれています[23]。前年のメルボルン・オリンピックが72カ国3,314名の参加なので[24]、オリンピックを上回る規模のイベントだったことがわかります。7月15日の時点で、ソ連オリンピック委員会コンスタンチン・アンドリアノフ会長は参加国は49カ国の予定と述べていましたが[25]、開会式に参加したのは、37カ国約2,000名でした。友好祭の開会式と同様、ロシア語アルファベットで最後の文字であるЯを頭文字とする日本は主催国ソ連の一つ前での入場でした。当日、陸上代表の小掛照二選手は「われわれは十名のレスリング人に一番期待をかけている。彼らは好調だし練習も十分だ」とのコメントを残しました。レスリング代表選手たちは、この期待を裏切らない活躍を見せることになります。

 開幕直前、レスリングではトルコとイランが参加しないことがわかり、毎日新聞が述べるように「日ソの一騎打ち」が予想されました。「諏訪の優勝は確実」視される一方、大学で実績のない石澤選手については、「バンタム級では世界の水準が落ちているので石沢がどの程度いけるかが問題だが、フェザー級の矢田も有望視されている」と触れられ、必ずしも期待は高くありませんでした[26]

 石澤選手の日記は7月31日の記述を最後に途絶えています。迫りつつある試合に備えるためでした。その準備の一つが、計量に備えた減量でした。現役時代、減量はレスリング選手として特に辛かったことの一つだったそうです。

8. レスリング・フリースタイルの試合

試合の模様は連日、日本の新聞でも報道されました。それらは必ずしも詳細に渡る記録ではないため、ロシアの文書館(GARF)に残っている記録も参照して述べてみます[27]。ソ連側の資料を見てもレスリングでは、開会前から日本、ブルガリア、ソ連の参加国の選手の活躍が予測されていました[28]。まず試合が行われたのは、日本が選手を派遣しなかったグレコ・ローマン・スタイル(腰から下の攻撃を禁じる古典型レスリング)で、7月31日から8月3日にかけて実施されました。ここではソ連が各国を圧倒し、8つのうち7つの金メダルを奪っています。一方、フリースタイルは8月5日から8日にかけての4日間に渡って戦われました。参加国は16カ国でした。前評判どおり、ソ連、日本、ブルガリアの各選手の活躍が目立った他、ハンガリーの選手も一人金メダルを獲得しています。

試合は予選と決勝に分かれ、以下のようなルールで実施されました。試合は12分間、ポイント(失点)制です。立技(スタンド)6分間、寝技(グラウンド)2分間×2、さらに立技2分間の順序で試合を行い、フォール(相手の両肩を同時にマットに付けること)があればその時点で終了となります。フォール勝ちが0点、ポイント勝ちは1点、引き分けは2点、ポイント負けは3点、フォール負けは4点が与えられ、累積6点になると予選敗退となります。3人に絞られると予選は終わりです。決勝は残った3人の総当たり制となります。ただし、すでに予選で対戦している組み合わせがあれば、その予選の戦績を持ち越して、予選で戦っていない組み合わせのみ試合を実施して、失点の最も少ないものが優勝となります。

 石澤選手は第1回戦(5日)ではモハメド・ラシド(セイロン)に1分11秒でフォール勝ちしました。石澤さんのメモには「開始のスタンドで両足タックルから体固めに行ったが、場外となり、又タックルをしてそのまま上四方固めでフォール勝」と書かれています。第2回戦もフェルナンドに1分53秒でフォール勝ちしました。同様に石澤メモによれば「最初のスタンドで両足タックルから、ボディプレスを掛けたが 場外で二度目のタックルで持ち上げ 相手の足をかり 体固めでフォール勝」。フォール勝ちを続けてこの時点で失点ゼロでした。第3回戦ではソ連の強敵ウラジーミル・アルセニヤン(1934-89)と対戦しました(写真)。「スタンドで両者とも二点減点された。そしてグランドで相手のバックに二度廻り一点リードしたが 最後のスタンドで逃げ廻り 結局、相手にバックポイント一点を取られ、同点となり 引き分けた」(石澤メモ)。12分をフルに戦って引き分け、これで失点2点となってしまいましたが、他の5名が累積6点で敗退し、5名が残りました。4回戦ではくじ運よく不戦勝となり、決勝進出となりました。

 決勝(8日)に残った3名のうち、残り2名はソ連のアルセニヤンとブルガリアのエニョ・ヴィルチェフ(1936-2014)でした。総当りのうち、石澤は3回戦でアルセニヤンと対戦済みで引き分けていたため、再戦することなくこの成績が決勝に持ち越され、両者ともに失点2が与えられました。残る対戦はヴィルチェフ対石澤、およびヴィルチェフ対アルセニヤンです。先にヴィルチェフと対戦した石澤は10分59秒でフォール勝ちしました。やはり石澤メモによれば「始めからタックルをして行ったが一本も取れなかった。だが、相手は二度減点され、グランドに入り足取りにかかり、二度ブリッヂをしてのがれたが、四点取られたので 最後のスタンドで相手を一方的にタックルをして場外に出した。それで結局、相手が逃げているので試合は中止されて勝った」。この試合について毎日新聞は「石沢は果敢にタックルで攻め、ビルチェフはそのつど場外に逃げたため規定によりフォール負けにされた。石沢もグラウンドでは足固めにあってピンチがあったがこれをよくこらえた」と伝えています[29]。この時点で石澤選手は失点2点が確定しました。他方のヴィルチェフとアルセニヤンは、どちらが勝っても失点2の石澤を上回ることはあり得ないため、この時点で優勝が確定しました。なお、これまでの試合で石澤選手のフォール勝ちはいずれも立技の時間帯でした。したがって、石澤選手は立技を得意とし、積極的に立技で攻め、寝技でうまく守ったことが勝因だったと言えるでしょう。新潟日報は優勝した石澤選手の談話を以下のように掲載しています。「やはりソ連選手との試合が一番苦しかった。大した相手ではなく日本でなら簡単に勝てるのだが、やはり地元選手のためやりにくかった。最後の試合は足取りでちょっと危うかった」(8月10日付)。最終戦でアルセニヤンは7分20秒でヴィルチェフにフォール負けし、3位に終わりました。フリースタイル・バンタム級の最終順位は以下の通りです。

順位氏名失点*敗退回戦
1石澤二郎日本2決勝進出
2ヴィルチェフブルガリア4決勝進出
3ウラジーミル・アルセニヤンソ連6決勝進出
4ニイロ・キンヌネンフィンランド64回戦
5フレディ・ケンメラードイツ民主共和国74回戦
6ジルベール・デュビエフランス93回戦
7マルセル・シジランフランス72回戦
8リントン・フェルディナンドセイロン72回戦
9モハメド・ラシドセイロン82回戦
10エルマーニ・シャルドンススイス82回戦

*決勝進出者の失点は決勝のもの、それ以外は予選敗退時点での失点

 この優勝について、石澤さん自身は後年以下のように回想しています。「異国で「君が代」を聴き、日の丸を見ていると、それまでの減量の苦しみやつらかった練習のことなどすべて忘れ、ただただ感激でいっぱいでした。今でも思い出して忘れることができません」[30]。他の階級では、フライ級で前評判通りに諏訪選手が優勝した他、フェザー級矢田、ライト級大倉、ウェルター級兼子、ライト・ヘビー級高木が銅メダル、ミドル級永井が4位、ヘビー級関が5位と全員が入賞を果たしました。

9. 試合を終えて

 10日の閉会式で、友好スポーツ大会はその幕を閉じます。しかし日本の選手団はいずれも、閉会式を待たずに近郊都市へ遠征を行いました。往路と同様にシベリア鉄道でナホトカへ向かう友好祭代表団との日程を調整するのも目的でした。レスリング選手団は10日からカフカースのグルジア(ジョージア)等に遠征した[31]。他にも、体操団はチェコへ、バレー選手団はレニングラードへ遠征し、15日頃モスクワに集結して再びナホトカへ向かいました。その後は待ち受けていたモジャイスキー号に乗船し、新潟への帰路につきます。これらの遠征の影響で、友好祭代表団とは異なって、レニングラード観光は行っていません。

 石澤選手は遠征までに取材を受けたのでしょう、8月11日付の現地紙『ソヴィエト・スポーツ』に寄稿し、ソ連の人々にもてなしへの感謝を述べています。

 私には祖国日本に多くの友人がいます。彼らは首を長くして私の帰国を待っています。なぜかといえば、私は彼らにロシアについて話すことを約束したからです。そして私には彼らに話すことがあります。ロシア人たちはとてももてなし好きであり、私たち日本人も含めて、すべての外国人を暖かく迎えてくれるということです。私は日本の若者に、私の新しい出会いを語るつもりです。〔…〕

 私たちはクレムリンも赤の広場も訪れ、ロシアの町のいくつかの通りを自由に歩き、どこに私たちが行っても、どこでも親切で感じの良い人々に会いました。どんなモスクワの人々も私たちに好意と敬意を持って接してくれました。私はこうしたことも、日本の友人たちに話すつもりです。[32]

 ソ連の人々が好意的に迎えてくれたことへの感謝とソ連についての情報を多くの人が待ち受けていることがはっきり伺える文章です。

10. 帰国して

 モジャイスキー号は8月25日午後に新潟港入りし、検疫を終えると19時過ぎに上陸します。一行を乗せた列車は8月26日午後7時に新潟から上野駅に到着し、翌27日午後4時より、岸体育館で解団式が行われ、友好スポーツ大会日本代表団はその役目を終えました。

 新潟到着直後にも石澤選手は談話を残しています。「ソ連、ブルガリアのレベルの高いのには驚いた。すでに米国などは相手にならないだろう。日本の技術が全部研究しつくされたとは思わないが、次回のオリンピックには新しい技術を身に着けてゆかないと。ソ連の観衆は目が高く、不正確な判定に対しては足を踏みならして抗議するが、ファンもレフェリーも共産圏の諸国には点が甘かったようだ」[33]

 他方で興味深いのは、毎日新聞に掲載された東団長の総括でした。「友好スポーツ大会は予想以上の大規模のもので、その豊富な施設など驚嘆に値する。しかし運営の面では不なれで、手違いも多くあった。出発前にはこの大会が純粋なスポーツ大会かどうか疑点があったが、ソ連でも平和祭とこのスポーツ大会とははっきり区別し政治色はみとめられなかった。将来も参加すべきだと思う。日本の健闘ぶりは非常な歓迎と声援を受けた。レスリングにしても日本、ソ連、ブルガリアの三つどもえだし、体操は日本とソ連の一騎打ちで、日本の参加が大いに大会を盛り上げた」[34]

 モスクワでの優勝を受けて、当然のことながら、石澤選手はたちまちのうちに次回ローマ・オリンピック(1960)の有力候補に踊りでました。1957年末の評価として「アマレス全日本ランキング」ではバンタム級一位にランクされました[35]。また、新潟県体育協会では昭和32年度優秀選手に選出されました[36]。大きな期待を寄せられて歩んだその後のレスリング人生で、1959年には全日本学生選手権(フリースタイル・バンタム級)で優勝しており、十分にオリンピック代表の資格はあったと言えるでしょう。しかしながら代表入りはなりませんでした。「この時オリンピックに出ていれば、また別の人生があったかも知れない」と石澤さんは回想します。代表から漏れた石澤さんは明治大学を卒業すると、洋舞代表だった薄井憲二氏の紹介で金十証券に就職しました。1962年には社会人選手権で優勝(フェザー級)しますが、まもなくレスリングは引退し、証券マンとして第二の人生をスタートさせました。退職後の現在は、庭師としてときおり近所の庭の手入れの仕事をこなしながら、悠々自適の第三の人生を送っています。日本経済新聞を一通り読むのは証券マン時代からの、日記をつけるのはモスクワ大会当時からの習慣です。


[1] 以上は石澤さんからの直接の聞き取りによっていますが、『明大スポーツ』(1959/10/24)には少し違う記述もあります。「中学生の頃ひまさえあれば近くの明訓高校を訪ずれ、レスリングの練習に見入っていたが折から新潟に来た阿部選手(OB)等一行の試合を観戦、男性的な姿に魅力を感じたのがこの道を歩むきっかけとなった」(「月間フラッシュ 全日本レスリング ライトヘビー級優勝 青梅上 バンタム級優勝 石沢二郎」)。

[2] 「国際試合経験者ぞろい モスクワ派遣代表 レスリングきょう選考」1957年6月23日付。

[3]「各級とも大激戦 モスクワ派遣 レスリング代表選考会」『読売新聞』1957年6月24日付。

[4]「モスクワ派遣 レス代表決まる 県出身石沢、大倉、高木も」『新潟日報』1957年6月25日付。

[5] 体の寸法に合わせて洋服を仕立てる際、前もって体に合わせて簡単に縫って合わせておくこと。

[6] 7月16日出港の旅程は後述するように当初の予定であり、実際には旅券闘争のあおりを受けて、出発は7月19日にずれ込んだ。

[7] 以上は、国会図書館「八田コレクション」所蔵のパンフレットによる。

[8] 「モスクワ行き レスリング 最後の合宿」『日刊スポーツ』1957年7月9日付。

[9] 「寝技を主体に猛練習 柔軟さみせる石沢選手」『新潟日報』1957年7月11日付。

[10] 「ベストを尽して きのう派遣選手団結団式」『新潟日報』1957年7月13日付。

[11] 「選手団新潟入り モスクワ青年スポーツ日本代表」『新潟日報』1957年7月16日付。

[12] 「出迎えのソ連戦 けさ新潟につく」『読売新聞』1957年7月16日付夕刊。

[13]「人気集めたア号のソ連人」『新潟日報』1957年7月17日付。

[14]「「がん張ってね」の声援 スポーツ代表けさ乗船」『新潟日報』7月18日付。

[15]「友好祭代表へはインター 選手は万歳のアラシでア号乗船」『読売新聞』7月19日付。

[16] 「当時、歌と踊りが本当に国民全体のものになっているという証に三日おきぐらいにぶつかりました。/三人集まると合唱がはじまるんです」、『聞き書き井上頼豊 音楽・時代・ひと』音楽之友社、 1996年、113ページ。「ロシア人が戸外で三人集れば必ずはじめる合唱の声が、風にちぎれて私のところまで届いてくる」、高杉一郎『極光のかげに シベリア俘虜記』岩波文庫、1991年、60ページ。

[17]「友好スポーツ大会の印象(車中対談)諏訪選手 田中選手」『日刊スポーツ』8月28日付。

[18] 薄井憲二氏への聞き取り(2017年10月1日、京都ホテルオークラ)。

[19]「本格的練習始める 友好スポーツ日本選手団」7月26日付。

[20] 「実に多い警官、軍人 石沢選手(レスリング)のモスクワ便り 買い物するには三度行列」『新潟日報』8月17日付。開会式の情報がなく買い物の記述があることから、27日夜か28日午前中に書いたと判断できる。

[21] 「昭和35年 異国で聴いた「君が代」に感激いっぱい」(http://www.meijiwrestling.com/modules/pico0/index.php?content_id=42)明治大学レスリング部(2021年7月15日閲覧)。

[22] 「友好スポーツ大会の印象(車中対談)諏訪選手 田中選手」(註17参照)。

[23]レスリングでは当時国際連盟副会長だった八田一朗が審判長として招聘され、体操競技では「適当な人を」「審判長として招待したい」と申し出があり、日本体操協会の近藤天常務理事が派遣された。当時レスリングと体操が日本のお家芸とみなされ、ソ連からも一目置かれていたことを示すエピソードと言えるでしょう。

[24] Melbourne / Stockholm 1956 Summer Olympics – results & video highlights (https://www.olympic.org/melbourne-stockholm-1956)(2021年7月15日閲覧).

[25]「49か国が参加 モスクワ・スポーツ大会」『読売新聞』7月17日付。

[26]「体操、レスで日ソ激突 モスクワ・スポーツ大会きょう開く」7月29日付。

[27] 試合の詳細については、以下を参照しました。ГАРФ(Государственный архив Российской федерации) ф.7576, оп.11, ед.хр.4, л.48. Секция вольной борьбы СССР: Протокол Соревнований по вольной борьбе.

[28] ГАРФ ф.7576, оп.11, ед.хр.4, л.83.

[29] 「世界青年友好スポーツ大会 バンタムで石沢優勝」『毎日新聞』8月9日付。

[30] 「昭和35年 異国で聴いた「君が代」に感激いっぱい」(註21参照)。

[31] YouTube上には«1957 год – Соревнования Осетинских и Японских спортсменов по вольной борьбе»と題して、スタジアムでの試合の模様を3分28秒に紹介する映像がアップロードされています。(https://www.youtube.com/watch?v=8ERzyYdkNVU)(2021年7月15日閲覧)。

[32] Исидзава Дзиро. Приезжайте к нам Японию//Советский спорт, 11 августп 1957г. 実際には8日ないし9日の談話をまとめたものでしょう。

[33] 「レベルが高いのにびっくり」『新潟日報』8月26日付。

[34] 「スポーツ代表帰京 東団長談 今後も参加したい 青年友好祭」8月27日付。

[35] 『日刊スポーツ』1958年2月16日付。

[36] 「高田高チーム(体操)など 県体育協会 表彰優秀選手ら決める」『新潟日報』1958年2月12日付。