バッヂ

 友好祭では、バッヂの交換が盛んに行われました。代表団がナホトカの港に上陸した際の歓迎集会を皮切りに、モスクワに向かうシベリア鉄道の沿線の停車駅、さらにはモスクワ滞在中の交流と、様々な場面でバッヂの交換が行われたといいます。

 交流の場でバッヂが喜ばれることは出発前から分かっており、代表団の人には事前に日本のバッヂが一人百個ずつ支給されていました。これと交換する形であっという間にコレクションが出来上がったといいます。川村秀氏の日記には、こういう記述があります。

7.25(モスクワ〔時間〕)Тайшет〔タイシェト:イルクーツク州の街〕につく。娘さんが2人、僕に大きなキエフの本のバッヂをつけてくれる。なかなかもてる。皆車中でうらやましがる。とにかく積極政策(積極的にバッヂをあつめる)が主流派となる。皆ハンカチにつけた収穫のよろこびを味つ(ママ)ている。

 このページでは、洋舞代表の三上弥太郎氏のコレクションを紹介します。茶色に変色した、この38センチメートル四方のハンカチは、1957年当時のものですが、ここに百個近いバッヂが留め付けられています。

 以下、種類別にこのバッヂを見てゆきましょう。

1.友好祭のバッヂ

 ここに掲げるのは、友好祭のために特別に作られたと思われるバッヂです。友好祭のエンブレムをかたどったもの、平和の象徴であるハト、「闇を照らす」「世を照らす」ことを象徴する松明などがあしらわれています。

2.ソ連各地のバッヂ

 次に掲げるのは、ソ連各地のバッヂです。街そのもののバッヂもあれば、その街で行われた地方レベルの「青年祭」を記念するバッチもあります。

 大きく四つのグループに分けて紹介します。

(1)シベリア鉄道の沿線の街

 モスクワに向けてシベリア鉄道を列車で移動中に停車した駅でもらったのだと思われます。到着順に並べておきます(沿海地方はウラジオストクやナホトカが存在する行政区画です)。

(2)モスクワ

 モスクワのバッヂは種類が豊富です。モスクワの名前をつけたもの、モスクワの名所をあしらったもの、モスクワ市内の地区のバッヂなどがあります。当然ながらモスクワ滞在中にもらったものでしょう。

(3)レニングラード

 レニングラードのバッヂも4種類ありました。代表団は友好祭の閉幕後にレニングラード観光に行っており、その時にもらったものと思われます。

(4)その他

 ここに掲げるのは、友好祭の期間中にソ連各地からモスクワに上京してきた人たちからもらったものでしょう。

3.ソ連の国情を反映したバッヂ

 ソ連のイデオロギーや国情を反映したバッヂがあります。

(1)レーニン

 レーニンの肖像画のバッヂは、様々なバリエーションが存在します。三上さんのコレクションでは、背景が赤で左向きのレーニンが一番数が多かったですが、レーニンが右を向いているものや背景の色違いもありました。

 レーニンのバッヂはソ連で広く流通していたので、様々な場所でこのバッヂをもらったのでしょう。

(2)その他

友好祭の主催団体であるせいか、このバッヂは個数が多い。三上さんのコレクションでは最多の7個を数えた。

コムソモールの下部組織「ピオネール」のバッヂ。Всегда готов! (「常に備えあり」)はピオネールの合い言葉。

運動能力テストのバッヂ。Готов к труду и оборону(勤労と防衛に備えあり)の略称。ここにあるのは一級と三級のバッヂ。

ソ連国内の総合スポーツ大会。4年に1度、オリンピックの前年に開催で、オリンピックの国内選考会を兼ねていた。

ソ連のサッカーチーム「クリィリヤ・ソヴェトフ」のバッヂ

ソビエト文学の基礎を築いたとされた作家

ソ連の国章である「鎌と槌」がデザインされている。

不明

4.外国のバッヂ

 三上さんのコレクションには外国のバッヂもありました。いずれも社会主義圏の東欧とモンゴルのバッヂです。友好祭に参加していた西側諸国の国のバッヂがないのところに、日本代表のモスクワでの交流のありようがうかがわれます

日本のバッヂ

 三上さんのコレクションには、なぜか日本のバッヂもありました。配りきれずに残ったのかもしれません。英語と日本語の二種類あります。

 三上さんのコレクションは自然とできてしまったものですが、友好祭ではこれを意識的に集めて誇らしげに示す人もいたようです。

いずれも«Мы подружились в Москве»より