開会式

 話を7月21日のハバロフスクに戻します。

 現地時間の午後3時に代表団が駅に着くと、またもや多数の市民が集まっていてホームで即席の歓迎集会が開かれました。30分ほどして汽車はハバロフスクを後にしますが、先発隊の20人がここで本隊を離れます。スポーツ代表団61人とともに乗用車30台あまりに分乗して市内を行進した後、郊外にある空港に向かい※1、夕方(モスクワ時間では午前10時すぎ)に機上の人となります。

 飛行機は双発のプロペラ機で、「それはひどいものだった。軍用機でしょう、あれは。給油のために数時間飛んでは降りる。その降りる先は〔飛行場ではなく〕土の上。牛がいて……。機内にハエがいて、それを追い払おうとしていると飛び立つ。ベルトもないので尻餅をつく」と、後藤すみ子氏が当時の様子を語っています。

先発隊の移動ルート

 ハバロフスクを出た後はマグダガチ(アムール州、現在この空港は廃止)、チタと離着陸を繰り返し、イルクーツクで機体を交換。日付が変わって、さらにクラスノヤルスク、ノヴォシビルスク、オムスク、スヴェルドロフスク、カザンと進みました。

 空港でも歓迎の出迎えはあったようですが※2、鉄道駅ほどの熱狂はなかったらしく、どの回想も言及は淡泊です。また、カザンでは時間に余裕があったのでバスで市内見学に出かけ、車窓からカザン大学やゴーリキーの家を見ました。

 カザンを出ると、ようやく次がモスクワ。ヴヌコヴォ空港に着いたのが22日の午後7時40分ごろ。ハバロフスクから計34時間のフライトでした。

 ヴヌコヴォ空港での歓迎式典を終えると、一行はバスに乗ってホテルに向かいます。モスクワの北の郊外、農業博覧会(現在のВДНХ(ヴェーデンハー))そばにあるオスタンキノ・ホテルが宿舎でした。すでに到着していた中国代表が拍手して迎えてくれたといいます。ほかにもインド、モンゴル、インドネシアなどの代表が泊まっていました。出来たばかりの綺麗なホテルで、道を挟んだ向かいに植物園が広がっており、窓からの眺めがとても良かったそうです。

オスタンキノ・ホテル

映画「彗星号の水兵(Матрос с «Кометы»)」(1958年)より 〔出典〕«PastVu»

 先発隊は、開会式まで五日の猶予がありました。後藤すみ子氏の日記を見ると、その間は市内観光、放送局での座談会や収録、来客の対応(報道各社のモスクワ特派員や、岡田嘉子※3などの在住日本人)に追われています。また現地の新聞に取りあげられたりもしました。下記は、1957年7月27日の『モスクワ・プラウダ』一面トップを飾った、一行の市内観光の様子です。

〔提供:後藤すみ子〕

 そして7月28日。ついに開会式の日を迎えます。

 式典は午後からモスクワ南東部のレーニン・スタジアムで開催でしたが、それに先立って、各国代表が市内の目抜き通りを行進するパレードが行われます。ВДНХを振り出しに開会式が行われるレーニン・スタジアムまでの十数キロの沿道には、数万とも数十万ともいわれる人びとが、遠来の賓客を一目見ようと集まり、趣向を凝らした装いに身を包んだ各国代表に熱狂的な拍手 を送りました。

4枚いずれもНа чудесном празднике(1957г.) より

 後藤すみ子氏は、開会式が盛大な式典だと思っていなかったと言います。浴衣姿で、花笠踊りをしながら出て行くつもりで、練習までしていたものの、朝食の時にインド代表が正装なのを見て、慌てて振り袖に(北原氏は紋付き羽織袴姿に)変更したそうです。

 日本代表にはトラック四台とバス一台が用意されていました。トラックは脇に菊の花と和傘が描いてあったそうです。助っ人参加のモスクワ在住者※4を入れても人数が少なかったので、日本代表はトラック三台に分乗。余った一台はソ連のブラスバンドが乗って応援し、バスは参加各国の旗を飾りました。

 市内パレードと開会式の入場行進は、国名のロシア語アルファベット順で行われました。このため、日本(Япония)は参加国の最後、トリを飾る主催国ソ連の直前でした。

 後藤すみ子氏は、市中パレードの模様を日記にこう記しています。

日本がわずかな人数でひっそりといるのが痛々しい。貧弱で悲しくなる。待っている間にお互いにコーラスを歌ったりして楽しい雰囲気だ。日本の出発に際して、ソ連の吹奏楽団が余ったトラックに乗ってくれて、民族を超えた暖かい気持ちに嬉しくなった。

 道をうずめた市民の歓呼の声はもの凄く、走っているトラックを追いかけて握手をしたり、トラックに飛び乗って怒られる人、スピードが落ちると忽ちサインを求められ、身動きが出来なくなる。路に沿った建物の窓と云う窓は人で埋め尽くされ、屋根の上迄人で一杯※5。そして ミール イ ドゥルージュバーの連呼、握手を求められ過ぎて手の甲が紫色になり、びっくりしてやめた。

 日青協の報告書も引いておきます。

十二時三十分行進が始まった。人の垣です。人の波です。モスクワ市民は我々に向かって「平和と友情!!」「ミイール、イ、ドウルージバ」と叫ぶ。旗の山です。笑顔の海です。その中を日章旗は進む。感激と興奮のるつぼです。心から歓迎してくれるこの市民や青年と再び、永遠に戦場で逢うまい!! 自動車が一時停車すると固い握手とサインを求められる。手が痛くなって来ます。愈々声がかれてしまった。モスクワ河を横にし(ママ)て車はスタジアムに向かう。すでに十四時三十分だ。いつまで続くのか分からない。

 二つの回想に出てくる「ミール・イ・ドゥルージュバ」(мир и дружба)のかけ声は、「平和と友好」という意味。この祭典(青年学生平和友好祭)のスローガンであり、ソ連の人たちは外国人と見ればこの言葉を連呼したといいます※6

 市内パレードは延々3時間に及びました。2時に始まるはずの開会式でしたが、日本代表がレーニン・スタジアムに着いた時はもう4時すぎ。車を降りると、隊列を整えてスタジアムに入ります。以下、後藤すみ子氏の日記です。

先頭に日の丸、原爆反対のプラカード、団長、次に我々、男性群。路を少し歩いてスタジアムに入る。晴れの入場式だもの少し緊張する。ワーワーと云う歓呼の声、スタンド一面の人の顔が人間だか豆だか見当もつかぬ位の人、人、人。これが人間だと気が付き一生懸命に手を振る。その中に緑色の和服を着た女性〔岡田嘉子?〕が夢中になって立ち上がって手を振ってくれた。とても嬉しかった。

 スタジアムに集まった12万人が手をたたくと「すごい音がする。さあーっと。それはすごい感動でした」と後藤氏は後年の聞き取りでも語っていました。

モスクワ大学から望むレーニン・スタジアム
開会式の日本代表とソ連代表

3枚ともレオナール・ジャナッダの写真集『Moscou 1957 Москва』より

 このHPのフロントページに使った開会式の写真(タス通信の配信で当時、毎日新聞や日本経済新聞にも掲載されました)を見ると、着物姿の7人の女性が目を引きます。後藤、菊地、矢崎の邦楽3人と被爆者で「原爆少女」として有名だった永田尚子(ひさこ)は先発隊ですが、そのほかはモスクワ在住者の助っ人です(モスクワ音楽院に留学中の小野光子(てるこ)、モスクワ放送勤務の河崎美智子、土方与平の妻の美枝子)。また日本代表が掲げた「原水爆実験禁止協定を結ぼう」の横断幕は、政治的な内容ですが、第五福竜丸事件の記憶が新しい時期だったこともあって、日本代表に最もふさわしいスローガンだと誰もが思っていました。後藤すみ子氏も、「原爆の体験者もいらっしゃるわけですし」「違和感は感じなかった」と述べています。

 開会式には、日本のスポーツ代表団が招待されて客席から見つめていました。レスリング選手の石澤二郎氏の日記を引いておきます。

午後3時からいよいよ入場式が始まる。全世界が一同にグランドに入るので時間がなんと2時間以上かかったことでもわかるようにこの人数は驚く程の人数です。それからロシア語での挨拶が1時間ほどありその後全員が退場し体育大学の学生が目を見張るようなすばらしい体操を披露してくれました※7。空には平和の象徴であるハトが放され円を描いて舞っていた※8。各国の旗が風船で上空へ上がる瞬間世界中の人たちが手を結び平和を口々にしていました。

 石澤氏は、明治大学レスリング部の会報には、次のように開会式の模様を記しています。

モスクワヘ着いて1週間たってから見物した平和友好祭の開会式ほど、私の心を打ったものはありませんでした。世界中から集まった何万という人たちをモスクワ市民が迎え、口々に「平和と友情のために」と叫ぶ姿を見て、これだけの人々の熱意があれば決して再び戦争は起こるまいと思えたものでした。

モスクワに到着した日本代表団
(1957年7月29日) 〔提供:川村秀〕

 開会式の翌日の7月29日、シベリア鉄道を乗り継いできた日本代表団の本隊がモスクワに到着しました。午後4時、ヤロスラヴリ駅に着いた代表団は日の丸を先頭に駅前の広場まで行進し、ここで歓迎集会が開かれます。薄井憲二氏によると、シベリア鉄道沿線の歓迎の中で「一番人が大勢いたのはモスクワの駅」だったそうです。「その群衆に一番びっくりしました。柵ができて近寄れないようになっていたけれども、площадь〔広場〕ができて、забор〔柵〕があって、向こう側に歓迎の人がすごい数で立っていた。あれが一番多かった」。開会式に間に合わない、遅れてきた人だからと、特別の歓迎があったのかもしれません。「モスクワ市民の歓呼の中をバスに分乗してホテルに向かう。広々とした通り、右側通行の車、全く警笛を鳴らさない車。ついにモスクワに来たという感じにピッとなる」(川村日記、7月29日)。


※1 スポーツ代表団は、おそらくハバロフスクで二手に分かれた。レスリングの選手はその日すぐ飛行機で出発している(石澤二郎氏の日記の記述)が、同行通訳の高木四郎の回想は、ハバロフスク市内で宿泊し、日本人の体操選手が模範演技を披露したほか、地元のサッカーの試合を観戦したと書いている。あくまで推測だが、スポーツ代表の飛行機の一部を、友好祭代表の先発隊に融通したのではないか。蛇足だが、高木によると、元抑留者でソ連に残留した日本人が、望郷の念にかられて宿泊先のホテルを訪ねてきたという。ソ連国籍の日本人は、1960年に千人を数えた(『朝日新聞』1960年6月7日朝刊)。

※2 杉山金夫氏は、オムスク空港に着いた際、歓迎に応えて、北原正邦氏の尺八を伴奏に「荒城の月」を機上から歌ったと回想に記している。

※3 昭和初期に映画演劇ファンを熱狂させた女優。1937年に演出家の杉本良吉とともにソ連に亡命。長らく消息不明だったが、1952年にモスクワで健在なことが判明し、以後モスクワに日本人が行く度に岡田との面会が話題になった。

※4 モスクワ放送に勤める河崎保・美智子夫妻、モスクワ音楽院に留学中の小野光子(てるこ)(うたごえ運動の指導者、関鑑子(あきこ)の娘)、土方与平・美枝子夫妻の五人。土方与平は、日本代表団とともにシベリア鉄道で移動していたが、7月24日にイルクーツクで本隊と別れ、飛行機でモスクワ入りしていた。

※5人々の乗った屋根が抜けて、死傷者を出す事件もあったようだ。開会式の翌日にモスクワに着いた画家の中野淳が、ホテルに向かうバスの中から「屋根のない商店」を目にしている(中野淳「クレムリンの赤い月」、81ページ)。

※61963年のガイダイ監督の映画「僕はモスクワを歩く」(Я шагаю по Москве)には、外国人の話す英語が分からないので、主人公が «мир, дружба»と言って適当にあしらう場面がある。https://cinema.mosfilm.ru/films/34493/ [23:02] 友好祭から6年経っても、外国人にはこの言葉を言っておけばよいとソ連の人が思っていることが分かり、興味深い。

※7 邦楽代表の4人が帰国後に行った座談会報告でも、このマスゲームには驚嘆の声を上げている。
北原 開会式のあとで、我々が今度はスタンドへ入って、あちらの民族舞踊とマスゲームを見せて戴いたんです。これ又素晴らしくて、ちょっと口では云い表せませんね。
菊地 一番人の多く出たマスゲームでは一万人位も居ましたね、体操と云う感じでなくそれ自体がバレーですね。
後藤 人文字を書くのがあったでしょう、平和と云う意味をロシア語と英語と中国語で書くんですが、最後に”和平”と読めた時は嬉しかった。夢中で手をたゝいちゃったけど。
北原 とにかくやり方がスマートなんです、彼等を一人ずつ見ると、野暮くさくて、デレンとしているんです。どこにあゝ云うセンスがあるかと思いますね。……明らかに莫大なお金と時間をかけしかも非常に芸術性の高いものであることが分かるんです。

※8 開会式では、平和の象徴として約一万羽の白いハトが空に放たれたが、ハトの飼育と訓練はコムソモールが組織をあげて担当した。飼育と訓練の方法を解説した小冊子が出版されている。Ларионов В.Ф. Разводите голубей. М.: Молодая гвардия, 1956. (тираж 10 тыс.)