モスクワへの旅
新潟港からナホトカ※1は一日半の船旅です。
ナホトカに着く前から船内はすでにソ連。異文化接触がはじまっていたようで、川村秀氏の7月19日の日記には、一時間半もかかる悠長な食事に「疲れて部屋に帰る人もあった」とか、ガス入りの水が飲めない、「トイレットの違いに参っている。ソ連の女の人は全くゴツい。男のような肩」と、当惑が見て取れます。ちなみにトイレについては、薄井憲二氏が、「使い方を知らない。だから、あっという間にめちゃくちゃな状態になった。ロシアの人も掃除できない。どうしたらいいか分からないから放ってあっ」たと語っていました。
こうした異文化接触は、日ソだけでなく、日本代表団の中にもありました。日本代表は、そもそもが様々な毛色の団体の「寄せ集め」で、日本ではまったく接点のなかった人びとが、モスクワ行きを共通の目的に「呉越同舟」したにすぎません。とりわけ労働組合と芸術代表とが、水と油でした。箏曲家の後藤すみ子氏は、「全員会議」や「支部別集会」といった表現に初めて触れて「困りましたよ」とこぼしていましたし、組合は組合で「芸術のヤロウは気取り屋ばかりで、“小市民的教養”をひけらかしやがって」と面白くなかったようです。面白くないと言えば、友好祭代表が二等船室、スポーツ代表団が一等船室なのに腹を立て、「何だ、金を払っている方※2が2等とはけしからん」と怒る議員さんがいたと川村日記に記されています。後藤すみ子氏も、「スポーツは特別待遇だった。モジャイスキー号でも上だしね。私たちは一番下の地下室」と話していました。
7月19日の夕方5時から、その全員会議が行われました。前日に新潟で行われた結団式で結論の出なかった団長に、三時間以上の議論を経て、ようやく佐野進(一般:東京都議会議員)を選出。副団長は、分野ごとに一人ずつ:樺山武三(労組)、辻武二(日青協)、降矢健二(農村)、小川義男(学生)、坂場栄蔵(一般)、川尻泰司(芸術)。また事務局長には今村真直(労組)が選ばれました。
ちなみに船内にはソ連準備委員会から派遣されてきた人たちが乗り込んでおり、以後、日本に帰国するまでの一カ月間ずっと同道しています。責任者はノヴォシビルスク州コムソモール第一書記のリハチョフでした。
そのリハチョフから、ナホトカから汽車旅を続けてモスクワ入りすると到着が7月29日になって開会式の7月28日に間に合わない、飛行機を一機だが特別に手配したから先発隊の20人を選んで欲しいと告げられます。日本代表の出国が遅れて開会式に間に合わないのを知った組織委員会が、一部だけでも開会式に出られるように考えた窮余の一策です。スポーツ代表61人は、初めからハバロフスクで飛行機に乗り換えてモスクワに行く予定でしたが、これと同じ移動手段を用意してくれたのです。
先発隊の人選の経緯は、はっきりしません※3。尺八奏者の北原正邦氏が「コンクールがあるから先に行きたい」「日本らしい着物を着ている」などと主張して邦楽の四人が選ばれたのが分かっている程度です。先発隊のことは項を改めて詳述するので、今は本隊の動きに戻りましょう。
一夜明けた7月20日の夕方、モジャイスキー号はナホトカに到着します。その様子を、当時の記録を引用する形で紹介します。
12.00 何も見えなかった青い海にソ連の巡視船が見えて来た。甲板にソ連兵の濃い緑色の軍服が見える。入管、及びゴスバンク〔国立銀行〕が乗船。一等サロンで査証及び通貨交換を行う。3時ソ連本土(沿海州)が見えて来る。停泊中の船。4.00pmいよいよ下船。(川村秀日記)
すでに甲板には荷物の整理の終わった団員が、始めてみるソビエトの土地をめづらしく眺めて、あれやこれやと話がはづむ。……新しい建物も見られ、船が港に近づくにつれて、岸壁に大変な人々が歓迎に出ているのが目につく。盛んに手をふっている。我々日本人代表団も甲板や、あるいは窓からこれに応へる。午後四時、佐野団長を先頭に下船。ソビエトの土をふむ。各自に花束が渡される。広場での歓迎大会に臨む。(日青協報告書)
数千人が集まったナホトカの歓迎ぶりは、後々まで参加者の語り草になっています。「下手をすれば桟橋から落っこちそうなくらいの人出」「(日本の見送りよりも)桁違いに多かった」(後藤すみ子談)。論より証拠、八木下弘氏の写真集を飾ったこの写真をご覧下さい。
八木下弘『ソビエト民衆の表情』より
舞踊家の三上弥太郎氏は、遠くから眺めたナホトカの岸壁は「赤と青と黄」が点々として「なぜ色をつけるんだろう」と思ったが、船が近づいてみると、人びとが花束を手に殺到しているのが分かって驚いたと話していました。
ナホトカ港から長い陸橋を渡った先に、1953年にできた鉄道のチーホオケアンスカヤ〔太平洋〕駅があります。代表団一行は「一人づつしか通れない人のトンネル」をくぐり抜けて駅前の広場へ向かいます※4。「この握手、ズドラーフストゥイチェの熱烈な挨拶、バッヂをつけてくれる。スポーツ選手よりもフェスティバルの歓迎の方がすごい。レーニンの大きな像、フェスティバルの大きなЗначок〔シンボルマーク〕のついた建物の前に壇が設けられ、日ソ両方の挨拶が交わされた」と川村日記の記述も興奮気味です。
ナホトカのチーホオケアンスカヤ駅〔写真提供:川村秀〕
駅には、日本代表団のための専用の寝台列車が待っていました。歓迎集会を終えて客車に入ると、各自の荷物がすでに運び込まれています。「船の中で番号を渡されて、荷物にこの番号をつけて下さいとタグも渡されて。そうすると、放っ ておけば汽車の中に置いてくれます。ロシアにしては手際がいいと思ってびっくりしました。その番号はずっと付いて回るんです、モスクワまで。だから、放っておけば駅からホテルまで荷物は届く。帰りもそうだし、汽車もずっと。ロシアにしては非常に手回しがいい」(薄井憲二氏談)。
汽車は現地時間の夕方6時5分に出発しました。モスクワまで足かけ10日の旅です。
大歓迎はナホトカだけではありませんでした。途中、96の駅に停車しましたが、どの駅も多くの人が待ち構えていて、日本代表団を歓迎でもみくちゃにします。「2~3時間ごとに停まる駅には、青年はもちろんのこと、子供、大人、老人達がプラットフォームに溢れるばかりに出迎えた。花束や、絵はがき、平和友好祭の記念“バッヂ”を手に。駅の中に入れなかった人達は柵や屋根の上からも手を振っていた」(八木下弘『ソビエト民衆の表情』)。
この「歓迎」には公的な「動員」の側面もあったでしょう。ただ、情報の少ないこの時代、国交を結んだ直後で、ほとんど未知の国の日本の人々が多数「わが町」を通過するとあって、好奇心をかき立てられても当然です。「日本人を見てやろう」という物見高さが多数の人を呼び寄せたのだと思います。こうして駅に停車する度に、お互いのバッチの交換、片言の外国語や身振り・手振りでの交流、合唱やフォークダンスの交歓が行われました。
日本人に手渡された贈り物は、花束、絵ハガキ、バッヂが断然に多いです。中には、とにかく何かあげたいからと自分の眼鏡をくれたおじいさんもいて(薄井憲二氏談)、ロシア人の素朴な人の良さが感じられます。花束は、駅ごとに大量にもらうので、後で処分に困るほどでした。またバッヂは、「各国代表との交歓の際に一番喜ばれる」ことから出発前に一人百個ずつ支給があり(『友好祭ニュース』第3号)、これを方々で交換したわけです。川村日記(7月25日付)に「とにかく積極政策(積極的にバッヂをあつめる)が主流派となる。皆ハンカチにつけた収穫のよろこびを味つている」とあるのが微笑を誘います。絵ハガキとバッヂは、当時の思い出として後年まで保管している方が数多くいらっしゃいました(「ビジュアル資料」参照)。
ただこの熱烈歓迎も、行く先々で毎日休みなく続くと、次第に閉口する向きも出てきます。外に出るのは輪番制にしたとか、深夜に到着したのでだんまりを決め込んだら外からドンドンと叩かれたといったエピソードも残っています。
予想以上の歓迎を目にして、過去の戦争の記憶が呼び覚まされたことが川村日記に記されています。7月21日の昼すぎに到着したハバロフスクの記述です。
ハバロフスクに着く。空港の町ハバロフスクは日本人おなじみの所だ。ここでも大歓迎をうける。建設中の工場、遠くの建物など、日本人が幾年か故郷を想って泣いたであろうこの町は私たちに一種特別の感慨をおこさせる。ビラ駅には大きなスターリンの像があった。(先発隊空路)。どこの駅だったか、80才位のおぢいさんが「おお、日本から来たか、日本から……」と涙をこぼして握手してくれた。もしかするとシベリヤ出兵の日本と斗った兵士だったかもしれない。そこかしこで握手、握手。自由党の宇田〔哲郎〕氏〔広島県議〕「こっちへ来て正直なところ動揺した。戦争前に来ていたら戦争をするのを止めただろうと思う」といっていた。
戦争が終わってまだ十数年。終戦後に60万人強の日本人がシベリア抑留の憂き目を見ており、最後までソ連に止め置かれた千人あまりが帰国したのはわずか半年前です。戦争の記憶はまだ生々しく残っていました。日本人が辛酸をなめただけでなく、過去には、1918年から22年のシベリア出兵のように、日本人がロシア人に多大な苦しみを与えたこともあります※5。そうした双方の辛い記憶を癒やすかのような日本代表への熱烈歓迎だったのです。
シベリア抑留といえば、代表団には元抑留者がいました。その一人である八木下弘氏は、写真集『ソビエト民衆の表情』の中で、イルクーツクでの3年間の抑留体験に触れた後、こう書いています。
バイカル湖畔のイルクーツクに汽車が停った時、思い出多いこの駅のプラットフォームを端から端まで歩き廻って見ました。もちろん駅の外には出ることは出来ませんでしたが、プラットフォームをそぞろに歩く私の胸中には10年前の苦しみや、楽しみが今は懐かしい夢物語りのように去来するのでした。
“汝の白き頬とも見ゆれ今日の月” 収容所の月を眺めながら妻恋しさのあまり一句ひねったのもその頃でした。
シベリア抑留とは違った形で戦争に人生を翻弄された人にも、日本代表は出会っています。『週刊新潮』1958年1月6日号掲載の「ここに日本人あり」という記事から紹介します。
チタ駅での出来事です。「列車の前部から五両目に一ボックスを囲んでいたF県代表のI氏〔名簿から推測するに、福島県の今泉正顕氏〕たち四人が、駅頭の交歓に向かおうと腰を上げた、その時、窓の向こう側に、貨物列車を引っぱった機関車の操車手二人の姿が目に映った」。そのうちの一人がアジア系で、どうも日本人に見える。思い切って声を掛けてみると、果たして日本人だったといいます。
「Tさん」——と仮名になっているこの人は、終戦時に南樺太で鉄道機関手として働いていました。進駐したソ連軍の命令で鉄道輸送の手伝いを続け、未婚で家族親類も行方不明だったことから、ソ連軍の言うままに沿海州に移り、その後、ソ連国籍を取ってソ連の女性と結婚し、二人の子供をもうけていました。代表団の四人が、日本が恋しくないか、誰かに伝言はないかと尋ねても、まったく関心を示さなかったといいます。ソ連で相応の給料を得て満足いく生活を確立していたTさんは、「楽しく豊かな思い出の一片さえも持ち得なかった過去に対して、いまさら未練をもっていても仕方がない」と考えているようだったと記事は記しています。
地元住民との交歓には、こうした驚くべき出会いもありました。
川村日記を見ると、停車駅での地元住民との交歓のほかに、車内では様々な活動が行われていたようです。7月23日(汽車旅の四日目)の記述には、「ソヴェト委員会のメンバー、モスクワ大学生の通訳を囲んでの座談会 日ソ両国語の勉強会など順調にのりはじめた。各代表団で新聞の発行をはじめた。即ち 文化→「ВОДА」 全体→「Здравствуйте」etc. 僕も通訳がいないので同乗の女医さん、看護婦さんを囲む労働青年の座談会の通訳をする」とあります。通過中の街の沿革を車内放送で紹介する「沿線案内」は、同乗のリハチョフが書いた原稿を川村氏が訳して流したものですが、「好評。朝日の相場さんまで欲しがってきている」と記されています(7月25日)。
「朝日の相場さん」とは、朝日新聞モスクワ特派員の相場正三久氏です。友好祭代表団の取材のためにモスクワから空路で18日昼前にハバロフスク入りすると、ここで代表団の到着を待って21日に列車に乗り込み、以後モスクワまで代表団と行動を共にしました。道中目にした沿線の様子を「シベリアの旅」と題した連載記事(8月5日から10日)にまとめて、発表しています。
代表団についての記述は多くありませんが、次のような記述が目を引きます。
代表団の一人はロシア人から上手な日本語で「私は本郷にいましたが、銀座や新宿は最近はどうですか」などと聞かれ、地方からの代表だったこの人は、かえって面食らってしまった(相場正三久「シベリアの旅」第2回:1957年8月6日)
満洲に住んでいたロシア人で、戦後にソ連に戻った人なのでしょう。閑話休題。代表団のモスクワへの旅に戻りましょう。
7月27日の深夜にスヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)をすぎた汽車は、ウラル山脈をこえてヨーロッパ・ロシアに入ります。28日の午前にペルミ※6を出た後、「1.00pm 車内放送はモスクワ開幕の実況報道をする。わきあがる拍手、かん声、アナウンサーの弾んだ声。全く残念である」(川村日記)。
※1 シベリア鉄道の起点はウラジオストクだが、海軍基地がある関係で「閉鎖都市」とされ、当時は外国人の立入を禁じていた。ウラジオストクから東へ百キロほどのナホトカは、大型船舶も停泊できる貿易港で、シベリア鉄道の支線が1953年に開通して以降、ウラジオストクの「閉鎖都市」が解除されるまで、極東の「窓口」の役割を果たしていた。
※2 友好祭の参加者は、出発前に賛助会費を払っている。金額は12万円(薄井憲二)、25万円(後藤すみ子)など、諸説ある。
※3 各種文献や聞き取りから先発隊に加わったことが明らかな人は、次のとおり。〔邦楽〕菊地悌子、後藤すみ子、土橋明、北原正邦、〔日青協〕辻武二、高橋正、井田優、〔労働〕杉山金夫、吉田実、樺山武三、〔学生〕山田忠、〔被爆者〕永田尚子、〔通訳〕小沢政雄、吉沢炳浚。
※4 洋舞の芙二三枝子は、こう記しています。「モジャイスキー号を下船した私達は港一杯埋めつくした歓迎の人々の中を蛇行していった。両側から私の胸に一斉にバッジをつけてくれる。美しいカードを手渡される。みるみる内に私達の手の中は花束で一杯になった。」(芙二三枝子「私達はこんな風に迎えられた」)
※5 シベリア出兵の際、日本軍はチタやイルクーツクまで行っているが、川村日記の7月23日に次のような記述があった。
チタ駅は北側がメイン・ストリート。軍楽隊の歓迎。通訳の某君「ある威圧を感じたな。」「矢張り日本人の居たところは双方ともおもわくがあるのだろうナ」
※6ペルミは1940年からモロトフと呼ばれていたが、1957年6月の「反党グループ事件」でモロトフが失脚すると、1957年10月2日のソ連最高会議幹部会令で旧称のペルミに戻った。川村日記には「Пермь(モロトフ)」と書かれており、幹部会令の出る前からペルミの旧称が通用していたことをうかがわせる。