絞り込みと新潟出港

 旅券が出ることは決まったものの、今度は選出した500人の代表を150人に絞り込まなければいけません。どの人も出身母体を持ち、また親戚・友人・知人・先輩・後輩などからカンパ・餞別をもらっての渡航とあって、簡単に「席」を譲るわけにいかない。にも関わらず決定までの時間はごく僅か。150人受諾を実行委員会が正式決定したのが日付が変わった7月17日の深夜で、その日の午前6時には外務省に書類を出すよう言われていました。夜を徹しての150人の選出は困難を極めます。

 絞り込みの経緯が回想や証言からある程度分かっているものを紹介します。

 文化芸術部門の絞り込みは、幹事会に一任されました。この部門には11のジャンルがあって(邦舞、洋舞、邦楽、洋楽、うたごえ、演劇、映画、写真、美術、服飾、人形劇=劇団プーク)、各ジャンルから一人ずつ幹事が選ばれて幹事会が組織されたのです。ここが100人の代表から35人を選ぶことになりました。

 幹事会での徹夜の議論は、どのジャンルも均等に三分の一に減らすドライな割り切りの主張と、友好祭で行われるコンクールへの出場を重視して舞台関係(舞踊・音楽)に一人でも多く割り当てる主張とが対立したといいます。午前5時までかかって幹事会がようやく配分案をまとめたところ、大物文化人※1が別の案を持ち出して、あっけなくご破算になります。師匠筋に当たるうえ、外務省との折衝などで動いてくれた手前、断れなかったのでしょう。しかし、この案にも別の方面から異論が出て、まさに収拾がつかない状態になりました。

 この時、平井澄子(邦楽)の一言が全体の流れを決めます。

うまくまとまるきっかけを作ってくれたのが平井澄子さん。私が降ります。その一言で実にスムーズに行った。僕は現場にいたから覚えている。ほかの分野の人にまで名前が知られていたかどうかは分からないが、実に毅然とおっしゃった。まさに鶴の一声。僕は感動しました。あれがないといつまでももめていただろう。下手をすれば血の雨が降ったかもしれない。そういう血の気の多いのはいっぱいいたから。(鈴木巌氏談)

 このように平井澄子が辞退したことをきっかけに、若手に譲ろうという機運が生まれ、険悪な雰囲気で、暴力沙汰も予期された代表選びは収束に向かいます。邦舞5、洋舞8、うたごえ8、邦楽4、洋楽2、プーク3、その他は1ずつと配分が決まったのは、午前七時半のことです。

 こうしてジャンルごとの人数は決まったものの、この中の絞り込みでさらにもめた所もあります。洋舞は13人を8人に減らされました。すでにアンサンブルを組んで各種の踊りがつくられているため、選ぶに選べず、結局、投票をして決めたといいます。

何人か人数は決まっているんだから、そこに出席した人が、誰が行ったらいいとその名前を連記して投票しました。私も投票した。自分が何を書いたか分からないけれど、私は満票でした。みんなが行ったらいいと思ったんです(薄井憲氏談)

 薄井氏は、シベリア抑留中にロシア語を習得しており、その語学力で周囲から一目置かれていたので満票になったのだと思われます。

 当時、民青同盟の神奈川県委員長をしていた長崎眞人氏の回想からは、異なった風景が見えてきます(「文献資料」の半谷史郎「1957年モスクワ平和友好祭–ある日本人参加者の思い出(上)」参照)。

 長崎氏は、原水禁運動を通じて日青協や労働組合(総評や地評)と協力関係を築き上げており、その人脈を使って神奈川県の友好祭派遣委員会を立ち上げます。労働組合や青年団、文化団体から集まってきたメンバーは、「運動の経験がほとんどなく」、招待旅行でモスクワに行けるというので「行きたいやまやまで参加」した人だったといいます。

 神奈川県からは6人が参加予定でしたが、これが2人に減らされます。長崎氏の記憶では、外務省が旅券を出し渋るのを見て、早くも7月初旬に神奈川で会議を開いて絞り込みをしていたといいます。神奈川は、労働組合(=社会党系)、青年団、民青が三本柱でした。まず労組と青年団の話し合いで、社会党から1人出すことが決まる。残る一枠をどうするかとなって、社会党の青年部長がぜひともと言うのを、それでは2人とも社会党になるので、「この運動は私のところのみんなが今まで地道に積み上げてきたのだから、もし社会党がこの人1人と絞るのであれば、あとの1人は僕が出ることにしたい」と言って長崎氏に決まりました。

 だだ長崎氏が強調するのは、このように民青が主導して組織的に動いたところは非常に珍しい(全体150人の中で民青から出たのは長崎氏一人でした)。地方は「まとまりが難しかった」だろうと言います。また活動家の目から見て、「これはあまりふさわしい代表とは思えないような者が、半ば観光的な感覚で行っている連中がたくさんいました。行ったことによる成果が後に日本の民主化運動にどの程度役に立ったかで評価すれば、私の感じではほとんど意味がなかった。それっきりで終わりです」と述べています。

 代表は、別枠5人が認められて最終的に155人になりました※2。17日の日中に予防注射をすませて出発の荷物を整えると、午後8時前に全員揃って外務省渡航課に出頭して旅券の受け取り。その足で上野駅に向かい、午後10時半の急行「佐渡」で新潟に出発しました。『読売新聞』7月18日朝刊は、「五百人の代表を百五十五人にしぼったせいもあって、見送り人は千人以上(上野駅公安室調べ)、組合旗、ノボリ、赤旗など数十本がはためき まるでモスクワに”出征”でもするよう」と伝えています。

外務省での旅券の受け取り
上野駅での見送り

ともに1957年7月17日 〔提供:朝日新聞〕

 7月18日朝に新潟に着いた一行は、一足先に新潟に着いていたスポーツ代表団と合流すると、午後5時半からソ連船「モジャイスキー号」※3に乗船を開始します。「乗船を終わった代表団が船べりに、乗船できない見送り側はふ頭に並んで日本実行委員会、兼実行委員会主催の歓送大会がはじまった。……大会を終わった後も代表団、見送り側も名残が尽きず、肩を組んで歌をうたう者、船の上と下とで泣き出す人など、日の暮れかけた新潟港はいつまでも興奮がただよっていた」(『新潟日報』1957年7月18日)。一行を乗せた船は港内で一泊します。
 翌19日は、朝4時ごろから見送りの人が集まり出し、5時すぎには5000人くらいに膨れ上がって「身動き出来ない有様」。船上から岸壁に紙テープが投げられ、船と岸壁とを紙テープでつなぐ別れの挨拶。「午前六時出港のドラを合図に代表団の壮途を祝って放たれたハトがア〔レクサンドル・モジャイスキー〕号上空を二回、三回と旋回、雨空のかなたに消え去り、六時五分ア号の巨体は静かに岸壁を離れはじめ、テープが切れ、バンザイの声が爆発した」(『新潟日報』1957年7月19日)。
 こうしてモジャイスキー号は、日本海を横切って一路ソ連のナホトカに向かいました。

新潟港中央埠頭で、モスクワ友好祭と世界友好スポーツ大会の代表が乗ったソ連船を見送る人びと
(1957年7月19日)〔提供:朝日新聞〕

※1 『音楽新聞』昭和32年8月4日号は、以下の人びとを「割当に関して……大きな働きをした各芸術ジャンルの主なる人」に挙げている。〔音楽〕山根銀二、井上頼豊、村松道彌、〔洋舞〕石井漠、高田せい子、江口隆哉、檜健次、山田五郎、津田信敏、平岡斗南夫、執行正敏、〔邦舞〕花柳寿二郎、池谷作太郎、〔演劇〕千田是也、岡倉士朗、木下順二、八田元夫、〔映画〕牛原虚彦、〔服飾〕末田利一、桑沢洋子、〔写真〕木村伊兵衛、〔美術〕本郷新。なおこの段落の記述は、池田龍雄「ぼくはモスクワに行けなかった」も参照した。


※2 内田移住局長が実行委員会との交渉で「150名という数字は文化関係を考慮して出したものであるから30名では少なすぎる、60名位にしてほしい」との意向を示し、非公表を条件に枠を5人分増やしていた。実行委員会では文化3、中央1、地方1の配分を考えていたが、文化担当の委員が増員はすべて文化だと速断し、文化芸術代表を35人で選出してしまったという(『友好祭ニュース』第16号)。


※3 『朝日新聞』1957年7月21日朝刊によると、モジャイスキー号には、上野動物園がモスクワ動物園に寄贈するクマ二匹も乗っていた。同時期にモスクワ動物園に寄贈された動物には、ほかに中国のパンダがある(モスクワ動物学博物館のサイトより)。