日本での派遣準備
第6回世界青年学生祭のモスクワ開催は、1956年2月の世界民青連執行委員会で決まりました。ソ連の運営母体は、シェレーピン率いるコムソモール(共産主義青年同盟)です。
日本で派遣準備が本格化したのは、1957年春のこと。第1回の日本実行委員会が4月6日(土)の午後2時半から衆議院第二議員会館で開かれています。
実行委員会が発行した『友好祭ニュース』(第1号は4月30日付;「文献資料」に入手した各号を収載)によると、常任実行委員に決まったのは次の10団体:日青協〔日本青年団体協議会〕、全青婦〔全日本青年婦人会議〕、YMCA、全学連、民青〔日本民主青年同盟〕、日農〔日本農民組合〕青年部、日ソ親善協会、日本のうたごえ実行委員会、国民文化会議、東京実行委員会。保革を問わず幅広い団体が参加していたことが分かります。
この日は、次の人びとを代表および常任委員に選任しました。
代表委員:平沢栄一、吉田正志〔日青協〕、吉野秀俊〔全学連〕
常任委員:加藤一成(事務局長)、谷木たかし、福田隆一、滝沢哲比古、藤本洋〔日本のうたごえ〕、菊間利通〔日ソ親善協会〕、末山亮一
実行委員会の事務局は、東京駅前の日本交通公社(現在のJTB)に置かれました。国際準備委員会から割り当てられた日本の参加枠が500人だったため、「500人の〔海外〕旅行なんて当時なかったですから、交通公社が事務所ぐらいどうぞと」「木造二階建ての交通公社の中」の海外旅行部室に「4人座れるデスク」をくれたといいます。モスクワとの連絡は、土方与平(1927~2020;築地小劇場の創設者の一人で、1930年代にソ連やフランスに亡命していた「赤い伯爵」土方与志の次男)が一手に引き受けました。世界民青連の日本代表として1950年代に東欧やソ連で活動していた土方は、ロシア語、英語、フランス語がペラペラでした。モスクワの国際実行委員会に毎日電話するのを見て「交通公社の人たちは、みんなびっくりしていた」そうです(川村秀氏談)。
5月7日に開かれた第3回実行委員会でモスクワに派遣する日本代表500人の割当が決まります。(1)通訳30名と代表団事務局5名、(2)文化芸術代表100名、(3)中央団体の縦割り130名、(4)地方代表235名。この按分に従って各団体が5月末までに代表500人を決定。6月3日にモスクワから正式の招待状が届くと、6月10日に全員の渡航書類を外務省に提出しました。
ところが事はすんなり進みませんでした。外務省が旅券発給に難色を示したため、一ヶ月近くにおよぶ「旅券闘争」が展開されることになります。