パジャルスタ会
友好祭に参加した芸術代表の人たちは、帰国後に同窓会「パジャルスタ会」を組織して定期的に集まっていました。このページではパジャルスタ会結成のいきさつと活動の一端をご紹介します。
日本代表団は、友好祭の閉幕後にレニングラード観光をした後、8月14日に再びシベリア鉄道に乗り込み、ナホトカに向かいます。ギター・コンクールの優勝者、鈴木巌氏によれば、この帰路のシベリア鉄道の旅が、芸術代表団がまとまるきっかけだったと言います。行きのナホトカからモスクワの9日間は、本番を控えて練習やリハーサルに忙しく、周囲のことに気を配る余裕などありませんでした。しかし帰りのレニングラードからナホトカの10日間は、仕事の済んだ解放感に加えて、することがなくて時間を持て余していたからです。 このあたりの事情を、舞踊代表の芙二三枝子氏は次のように説明しています。
ホテルの食堂などで顔と名前を覚えるところから始まり、8月3日のワフタンゴフ劇場での「日本の夕べ」を成功させて一体感が生まれ、各種コンクールの好成績はみなで我がことのように喜んだ。
それでも仲間としてその絆が一層強くなったのは、なんといっても帰路シベリア鉄道の中であった。責任ある祭典での仕事が済んだ解放感と、帰るだけになった自由時間の中で、自然に自分達の日本での環境を話しはじめた。音楽家同志も洋楽だの、邦楽だのと区分けされ、舞踊も洋舞や邦舞と言った名で分けられて、ほとんど交流が無かったから、お互の育ち方や活動状況など、全く知らないことばかりで、日本の文化の歴史と、私達が今立っている地平と時点がどうなっているかを見渡す思いの話が交わされ、実状をようやく悟る情報を交換した。
芙二氏はこのジャンルの垣根をこえた交流のはじまりを「文化の暁」「日本の文化の夜明け」と表現しています。「毎日”他を知って自分を知る”という話題で、10日間はあっという間でした」と書いています。
一行のナホトカ到着が8月24日。再びモジャイスキー号に乗って、8月25日夕方に新潟に帰着します。翌日の午前に新潟日報ホールで解団式を終えると、多くが急行「越後」で帰京します。しかし、芸術代表はこれで別れるのが名残惜しく、越後湯沢で途中下車し、温泉で一夜を共にしたといいます。これが「パジャルスタ会」の「結団式」でした。
ちなみに会の名前の「パジャルスタ」とは、滞在中に何度も耳にしたロシア語Пожалуйстаに由来します。スパシーバ(ありがとう)と言えば「パジャルスタ」(どういたしまして)と返ってくる。物を手渡される時には「パジャルスタ」(はい、どうぞ)と言われる。あちこちで聞くので「笑顔と共にその言葉がとても印象強く耳に残り、誰となく「パジャルスタ会」にしようと言いだし決まった」といいます。
パジャルスタ会の会員は、次の方々です。
氏名 | (旧姓) | ||
---|---|---|---|
人形劇 | 川尻泰司 | 芸術団団長 人形劇団プーク主宰 | |
人形劇 | 平原陽子 | (木村) | 人形劇団プーク演技部 |
人形劇 | 古賀伸一 | 人形劇団プーク演技部 | |
人形劇 | 松井恒幸 | 人形劇団テアトルポックル | |
演劇 | 木村鈴吉 | 劇団俳優座演出家 | |
演劇 | 溝上昇 | 劇団主宰 | |
美術 | 尾藤豊 | 洋画家 | |
美術 | 中野淳 | 洋画家 | |
美術 | 長谷川由紀子 | (中野) | 商業デザイナー |
美術 | 朝倉摂 | 日本画家 | |
映画 | 富沢幸男 | 記録映画演出家 | |
映画 | 堀口貞美 | 映画愛好者連盟理事 | |
服飾 | 石川豊子 | グラフ社編集主任 | |
写真 | 田沼武能 | 写真家 | |
洋楽 | 滝沢三重子 | 声楽家 | |
洋楽 | 高田唐吉 | 東京労音 | |
洋楽 | 鈴木巌 | ギター奏者 | |
邦楽 | 北原篁山 | 尺八家、「四人の会」 | |
邦楽 | 菊地悌子 | 箏曲家、「四人の会」 | |
邦楽 | 矢崎明子 | (土橋) | 箏曲家、「四人の会」 |
邦楽 | 後藤すみ子 | 箏曲家、「四人の会」 | |
洋舞 | 芙二三枝子 | 舞踊研究所主宰 | |
洋舞 | 佐藤祐子 | 舞踊研究所主宰 | |
洋舞 | 石井かほる | 石井漠舞踊団 | |
洋舞 | 木村和子 | (亀田) | 江口・宮門下 |
洋舞 | 工藤昇三 | 江口・宮門下 | |
洋舞 | 三上弥太郎 | 江口・宮舞踊団 | |
洋舞 | 江崎司 | 舞踊研究所主宰 | |
洋舞 | 薄井憲二 | 東勇作バレエ団舞踊研究所主宰 | |
邦舞 | 若柳雅康 | 日本舞踊家 | |
邦舞 | 若柳松葉 | (市山) | 日本舞踊家 |
邦舞 | 高橋志満 | (坂東) | 日本舞踊家 |
邦舞 | 水木歌寿史 | 日本舞踊家 | |
邦舞 | 水木歌寿娥 | 日本舞踊家 | |
建築 | 吉田実 | 建築家 | |
川村秀 | 日ソ協会 | ||
岡安宏 | 露語通訳、新世界レコード社 |
このほか、友好祭の時はモスクワ放送で働いていた河崎保・美智子夫妻が1969年に帰国すると新たな会員として加わったほか、同じく友好祭の時に日本代表をモスクワで出迎えた女優の岡田嘉子も、1972年から1986年の日本帰国中は会合に顔を出していたそうです。
パジャルスタ会の活動は、発足から約60年にわたって続きました。
会員の面々が年を取ってからは、芙二三枝子氏が自らのダンススタジオを会場に提供していましたが、その芙二氏が2018年3月16日に亡くなり、また連絡役を買ってくれていた鈴木巌氏が2019年8月23日に亡くなったことで、パジャルスタ会は事実上の幕を閉じました。