川端香男里(1933~2021)

 ロシア文学者の川端香男里先生は、1972年設置の東大露文科を発足直後から支え、またロシア・東欧学会の代表理事や日本ロシア文学会の会長なども歴任した斯界の重鎮です。あまり知られていない経歴ですが、若き日にフランス語通訳として友好祭に参加されています。

 以下に紹介するのは、2016年3月20日に鎌倉のご自宅近くの喫茶店でうかがったお話の一部です。当日は2時間半にわたって様々な話題に言及されましたが、ここでは友好祭の思い出に絞って紹介します。

(1)友好祭の通訳団

川端:とにかくあの始まりが大変でした。ソ連だってめちゃくちゃでしたよ。民間の交通を全部止めてゲスト専用にして、モスクワの連中はブーブー言ってて、街を歩けばその悪口ばかり言ってました。

半谷:そうですか。

川端:そりゃそうです。おまえたち一般の者は使ってはならないなんて強権発動ですよ。だけど、日本代表団も日本を出る時から組織が不明確で、誰の指揮下でどうなっているのか全く分からない。

 それから、通訳団も〔年齢は〕30までと一応の制限があったのに、小沢さんなんてもういい年でしょう〔小沢政雄氏は1916年生まれで、この時41才〕。それから実際に行くほう〔の差配〕は、例の土方与平――われわれが「よっぺい」って呼んでた――がほとんどやっていて、彼自身がロシア語とフランス語が一番得意だったから、英語を非常に冷遇したんです。冷遇っていうか、数が少ないんですよ。結局ロシア語が4人かな。(ひさ)()さんはベテラン中のベテランで、信任も厚かったです。

梅津:小沢先生と、あとお2人ですね。

川端:岡安宏。これが一番ベテランでした。だからロシア語で実際に働けたのは、久野と岡安、この2人です。これに小沢さんが加わったけど、全然使い物にならない。

半谷:これがフランス語、英語〔の通訳者の名簿〕ですけれども。

川端:根岸さんと(わたくし)と、この2人だけですね。それから英語はどうだろう。名前があまり特定できませんね。

半谷:あまりお付き合いはなかったですか。

川端:そうですね。英語が2人、確かいたと思います。でも与平さんの考え方で、国際語っていえばまずフランス語だと。外国語はロシア語よりフランス語がいいんだっていう。これだけは絶対。

梅津:譲らない。

川端:実情に合わない。彼はフランス語びいきなんです。だから、へーっと思う。それで小沢さんが1人浮いちゃったわけです。他は大体、青年ですから。何でああいうのが来たんだろうかと。

梅津:年配じゃないかと。

川端:それで旅券闘争の時に――彼なんかは来ませんでしたが、散々な目に遭って、減らされ減らされて、それで行くことになって、顔合わせはもうほとんど船の上でした。それまで会議も開かれなかった。岡安、久野、この2人だな。それから、捕虜で抑留されてて。

半谷:薄井さん?薄井憲二さん。

梅津:バレエの。

川端:そうです。よく覚えてます。バレエ団なんかの、そういう実技を持って行った人たちは、せっかくモスクワまで来たんだからと東欧からいろいろオファーがあったんです。来てくれないかと。ところが、結局、主体は社会党系労組だから、共産党の連中がみんな隠忍自重して提案しないんですよ。彼らには招待が来ないからもっぱら招待が来るのをねたんで、一致団結して来たんだから一致団結して帰ろうなどという馬鹿なことを言って。やはり見てて、社会党とか日教組とか、あれはひどい連中が多かったですね。もう非常に傲慢で、やたらフラッグ会議をやるわけです。そこでも共産党の連中はみんな隠忍自重してます。彼らは紳士でしたね。

半谷:それは見てて分かる。

川端:分かります。

半谷:特にあの人が誰というのではなくて、行動で。

川端:こいつは日教組だなって。とにかく教養がなくて、わがままで良くなかったです。むしろ自民党系の農村出身の連中が非常に良かったですね。その時から社会党は駄目な政党じゃないかと思いました。共産党は隠忍自重し過ぎ。つまり浮くか浮かないかが判断基準。こういうことを言うと過激で浮いちゃうんじゃないかって。何か話をしてて何か反応があると浮かないで済んだって大喜びっていう。要するに民衆から浮くのを、非常に何というか……。

梅津:恐れている。

川端:共産党も褒められないんですよ。踊って歌ってる時代だから。うたごえ運動に行ったでしょう。うたごえと歌って踊ってだから、ほんとに柔弱で、見てて恥ずかしかったです。それで、結局、遅れに遅れて、しかも列車で行くことになったから、私は大歓迎で嬉しかったですけど、ただ、大会の発会式に間に合わない事態になった。だったらば、一部の代表団を先に。

半谷:ハバロスクから飛行機で。

川端:その時に幹部を先にやろうとなったの。で、通訳団はどうするってなったら、みんな小沢さんのことが頭に来てるもんだから小沢さんをやっちゃえっとなって、小沢さんが行ったんです。彼はロシア語の教師ですけど、会話は無理。それが大変傷ついたようでね。それで私がその陰謀者にされちゃったんです。全く付き合いはないし、ロシア語じゃないし、比較文学で大学院に入ったばかりのフランス語だから、彼ともコンタクトなんてないんですよ。ところが、あいつが扇動して1人追放するような形でモスクワに送ったと。追放じゃないですよ。

 それでどうなったかっていうと、僕はロシア文学会に入ってなかったんです。しばらくしてフランス留学があって、帰ってきて北大の教師になったわけですけど、その時に日本ロシア文学会に〔入会〕申請したんです。そうしたら、私のことを極めて悪質なひどい奴だと言って、入会を拒否する演説をしたんです。

梅津:その時まで根に持ってらしたんですか。

川端:持ってたの。そしたら、ロシア語の先生で、バレエとかもやってる野崎韶夫先生が、君は何かやらかしたのかいって。

梅津:聞かれたんですね。

川端:君は通ったけども、大変不安だと漏らしていた。

半谷:もめたと。

梅津:理事会か何かの。

川端:入会審査ですね。いや、びっくりしました。

梅津:先生、北大に行かれたのは何年でしたっけ。

川端:何年でしたか。大体、私が29歳の時だから。

梅津:33だから、1962年ですか。

川端:そんなもんですね。

半谷:もう何人かお話を聞いてますが、見てる人ごとに世界が違うなといつも思います。

川端:それはそうですね。私たちは一応採用されて、お金の心配はなかった。

梅津:自前でドルを準備する必要はなかったんですね。

川端:ありません。それからパスポート問題〔旅券闘争〕は、何回か行ったかな。だけど主体じゃなくて、要するに。

梅津:応援という。

川端:最初からみんなそういう意識で、われわれは間違えちゃいけないと。サービスをする側なんであると。小沢さんにそんなこと言ったらすっ飛ばされたかもしれないけど、それはみんな徹底してました。

【生い立ちから始まり、高校、大学、慶應外語でのロシア語修行などは省略】

(2)友好祭の通訳になるまで

梅津:平和友好祭の話にいよいよ入らせていただきます。そもそも友好祭が開かれることを、どちらからいつ頃お聞きになったのでしょう。修士に入られる前ですか。1956年だと学部の4年目ですね。

川端:国文学系なんかの連中と、ことにちょっと左っぽいっていうか、やられているようなところとの付き合いが強かったから、情報は割と早く入るんです。

半谷:そうすると、やはり個人的な何か。正式な依頼ではない。

川端:そんなものは全くなかったです。

梅津:ご自分で手を挙げられたんですか。

川端:そうですね。

半谷:いろんな話を総合すると、やる年の4月ぐらいには話が回り始めています。それも大抵、人づてで。だから関係者につながってる人だけに話が伝わって、手を挙げて行っている。

川端:そうですよね。私は、やはり土方与平の線だろうと思います。

半谷:そうですか。以前からお知り合いでしたか。

川端:いや、何か知らないけど、付き合ったことがあるのかな。その頃、彼は青年劇場の仕事にはまだ就いてなかったと思うんです。全くフリーで、暇だったんじゃないかな。だから、彼辺りがいろんなアイデアを出したり、人選をしたりしたんじゃないでしょうか。

半谷:確か土方与平さんは、東京駅前の日本交通公社に事務所をもらって、そこから国際電話をかけながら指示を出していたそうです

川端:モスクワの力の入れ方が相当なものだったってのは行ってみて分かりました。

半谷:周りで誘われた方はいませんか、1人だけ?

川端:誰もいないです。

梅津:土方さんとの個人的な関係で。

川端:通訳だから、特殊ですけどね。

半谷:ロシア語関係にお知り合いはいないですか。先ほども〔500人時の〕名簿はお見せしましたが。

川端:小沢さんは知りませんでした。久野さんは知ってました。久野さんは非常によく知られた有能な教師で、評判が高かったですから。

川端:これはいつの段階で作られたのかな。

梅津:500人で決定した時です。

半谷: 6月の中旬ですね。

川端:そうすると、通訳が取れる予定だったわけですね。その後の選択は、ほとんど土方さんだね。

梅津:選別の仕方はご承知でない。

川端:私がよっぺいさんから直接聞いたのは、要するに英語だとかロシア語だとかばかり落ちてるけど、これはあんまり役に立たん、フランス語を取らなきゃ駄目なんだって言ってました。

半谷:先ほどおっしゃってたフランス語の重視。

川端:だけど、それが根岸さんと私じゃ、他にいなかったわけで、あんまり役に立たなかったでしょう。

半谷:絞ることになるのは7月ですが、この辺りの記憶は? これは当時の新聞記事です。こんな形で結構、新聞沙汰になっています。

川端:なってるよね。デモも、いやデモというか座り込みもやりましたからね。

梅津:座り込みはされた?

川端:やりました。

半谷:であれば、これは記録映画から取ってきたものですが、これが外務省前の座り込み〔映像「外務省前の集会と陳情」を参照〕。

梅津:何か見覚えはありましょうか。

川端:これはあれだな。さっき名前が出てた岡安。岡安さんですね。

梅津:他にどなたか見覚えのある方はいらっしゃいますか。

川端:なかなかね。

半谷:難しいですね。

川端:根岸さんも全く知らなかったんです。ただ、印象としてはかなり絞り込みをやって、英語をがんがん減らして、フランス語も減らしていって。

半谷:ちなみに絞り込む時に、どういう形で絞り込まれたと聞いてます?

川端:聞いてません。

半谷:何も聞いてないですか。もう特に「あなた来て」という感じで。

川端:ええ。

半谷:噂では、ロシア語はくじ引きをしたらしいです。

川端:ロシア語の岡安、久野、それから小沢、それから仙台の引き揚げの人がもう1人いて〔鈴木芳之〕、それだけですよね。

半谷:あと、通訳じゃなくて参加者では、原卓也先生の名前もあります。でもこの辺は削られたようです。

川端:これは通訳じゃないはずです。

半谷:ええ、参加者として。

梅津:原卓也さんはペンクラブ所属という形で名簿に載っていますが、どうもくじで落ちたらしい。安井侑子さんはどうもくじで残ったらしい。はっきりしないですけど。今度また伺ってみたいと思いますが。

川端:くじですか。

半谷:やはりみんな行きたいですよね。基本的な確認ですけど、この時が外国は初めてですよね、先生。

川端:そうです。

半谷:周りもほとんど外国行ったことがない。

川端:そうですね。

梅津:お父さま〔英文学者、翻訳家の山本政喜〕も満州を除くと、なかった。

川端:ええ、行ってません。

半谷:当時の印象からすると、やはり外国は非常に遠かったですか。行きにくかった。

川端:遠かった、行きにくかったです。

半谷:自分としても、近い将来、こんなに簡単に行けるようになるとは思わなかった。

川端:思ってませんでしたね。

半谷:そうですか。とあるエッセイで読みましたけど、当時の外国へ行くということは、今の感覚でいうと宇宙旅行に行くようなものだと書いてありましたが、あながちうそではない。

川端:あながちね。

半谷:そうなんですね。

川端:私の場合は、親戚が樺太にいたこともあって、それほど外国との国境線が遠いわけではないです。樺太の記憶はそのまま外国の記憶とつながったりしますし、兄たちはさらに満州の経験がありますからね。

半谷:でも外国は遠いっていうのは間違いなくあるんですね。

川端:ともかく、そこら辺の選び方にやはり曇りがあったから。

梅津:後でもめる。

川端:もめたんですよね。

半谷:後で何か言われたりしませんでした? それはないですか。

川端:ありません。

半谷:あとは、荷物を作るのが大変じゃなかったですか。

川端:全くその記憶がない。

半谷:ないですか。

梅津:じゃあ、何を持参されたのかも。

川端:こういう物を持っていかなければならないっていう情報が来たかもしれませんけどね。何か注意書きみたいなものが来たような記憶もありますけど、別に援助してくれるわけでなし、適当な格好で。別に不自由しませんでしたね。

(3)通訳の仕事内容

半谷:通訳として、事前に何か資料を渡されましたか。

川端:全く。

梅津:プログラムとか日程表も、なしですか。

川端:今日はこの会場に行けってなもんで。

梅津:じゃあその都度、土方さんに聞いてと。

川端:いや、それは向こうのほうの権限らしくって。

梅津:ということは、モスクワでロシア人から指示があるんですか。

川端:そうです。

梅津:それはロシア語で聞いて。

川端:だから、日本の代表と向こうの代表とが会うような場面での通訳とか、演技か何かをやる場合に付いて行って、観衆とあれ〔出演者〕と両方に向けてしゃべるというようなことを。まあ、あんまり中身のある仕事はなかったですね。討論とかで苦労するって思い出は一つもありませんし。

梅津:討論会の通訳はされてない。

川端:してないです。

梅津:じゃあ、むしろイベントですか。

川端:イベントに行って演説などがあった場合に、例えば日本の人が発言をする時に脇にくっついて行ってしゃべると、もう1人通訳がいてロシア語をしゃべるというやり方。与平さんはそういうものを予測してませんでした。二重〔の通訳〕でみっともないけど、どうしてそんな発想になっちゃったのかなあ。ともあれ、与平さんの見通し通りにはフランス語は必要ではなかった。だから遊んでたようなもんです。

梅津:一応、派遣された場所に行くけれども、そうなる。

川端:向こうも例えば割り振りをして、じゃあこれに付いて行ってくれとなるけど、その時も、フランス語では使えないのでロシア語でやってる。たまたま私の場合は用が足りたけど、プラスアルファで。だから、これは与平さんが思い描いていたのとは別なもんだなと思った。

梅津:臨機応変にロシア語通訳をされることもあったんですか。

川端:ロシア語通訳がどういうことをしたのか僕はよく知らないです。日本の選手とか発表者とかについて行ってロシア語でしゃべるのは、一番需要があったでしょうね。

梅津:でもそういう仕事はされてない。

川端:僕はしてないですね。

梅津:あくまでフランス語通訳として。

川端:ええ。

(4)民衆の反応

梅津:自由時間はありましたか。

川端:ありました。

梅津:どこに行かれたのでしょう、観光ですか。

川端:交通事情が分かりにくい上に、結構、市民たちが協力的でなくてね。シベリア鉄道をずっと通って行く時の歓迎集会なんかとは段違いですよ。

半谷:違いますか。ものすごく人がいるんですよね。

川端:駅ごとに何十分かの休憩があるでしょう。その休憩を使って集会をやるわけです。

半谷:これが当時の写真です。これを見てすごいなと思いました。話を戻しますが、これがナホトカですが、やはり新潟とは段違いの人でしたか。

川端:いろんな所で、アジア系が強い所なんか、久野さんが通訳に立つと「Это наш?」〔あれって仲間じゃないの〕って言うんです。久野さんは日本人に見えなかったんだ。

半谷:ブリヤートか何かと。

川端:ブリヤート・モンゴルのまさに典型でしたね。さすがによく組織されてて、歓迎集会は大成功でした。帰ってくる時は全然で、物珍しげに見物人が来いてる。ところが、せいぜい3〜4人。

梅津:ガクッと減ってましたか。

川端:全然いないの。そして何か希望に燃えて歓声を上げるなんてのはない。ポケットに手を突っ込んで。

梅津:ジーッと見てる。

川端:ちょうどスターリン批判の話が出てきた頃でしたから、これはすでに浸透してるねって根岸さんなんかは言ってました。もうスターリンのあれが出てると。一般民衆との間の差っていうか、行きと帰りじゃ大違い。それから代表団は、呼ばれて外〔外国〕に出た人は幸せでいろんな所を回って帰ってきた。それに浴さなかった人たちはサーッと寂しく汽車で帰って。

(5)行きのシベリア鉄道

半谷:モスクワに行く途中は、電車の中で何をされてました? 時間は山のようにありますが。電車の中も会議をしてたっていう話も聞きましたけど。

川端:そうですよね。

梅津:参加されたりは。

川端:いや、全く。

梅津:ノータッチですか。

川端:ノータッチですね。

半谷:通訳の仕事ではない。

梅津:関係ないってことですね。通訳仲間と一緒のコンパートメントだったんですか。

川端:そうですね。

梅津:じゃあ、根岸さんとかと一緒に。

川端:そう。そういう気の合った人間たちはみんな非常に知的で、いい旅行だったと思ってます。ただ、最初のころ、ハバロスクから汽車に乗って動き始めた直後はいろんなことがあってね。

半谷:例えば何か。

川端:朝みんな変な格好して行くとか。朝はきちんとネクタイして出るもんと、われわれが教育してあげましたよ。とにかく日本の田舎から突如やって来てるのが多いんです。向こうの女性、割とひげが濃いんです、毛が。すると、それを指さしして笑うとか。代表団として何だっていう、もう少し気を付けろって、通訳団がみんなに声をかけたぐらいです。

梅津:マナー講習ですね。

半谷:あと電車の話でいうと、開会式に行く先発隊があります。あれはいつ分かったんですか、開会式に間に合わないのは。

川端:最初から分かってました。

梅津:最初からって、新潟に行く前ですか。

川端:そう。

半谷:その時に分かってましたか。

川端:分かってた。

梅津:で、どうしようかっていうのはシベリア鉄道の中で。

川端:ええ、決めたわけです。

半谷:さっきの小沢先生だけを送るのは、どこで決まったんですか。

梅津:通訳仲間で話し合えとなったんですか。

川端:いや、われわれ情報としては知ってましたけど、どうなるんだろうねなんて言いながら見ていました。それは上層部で決めることだから、われわれは発言を控えた。でも、やはり向こうも誰が一番リーダーとして信頼できるか目星を付けていて、そういう人に相談したんじゃないですか。この場合は久野さん以外は考えられない。

梅津:久野さんが小沢さんを人選した。

川端:と思います。どう考えたのかは分かりませんけど。

梅津:それで他の方々がほっとされたわけですね。

川端:ほっとというよりも、例えば久野さん辺りが選ばれたらちゃんと職務ができるから、そうすべきだったようにも思うけどね。

梅津:久野さんがなぜ行かなかったんだろうとなりますね。

半谷:幾つか持ってきた物があります。例えばこれは、当時の絵はがき。そこら中で配ってたらしいですが、見覚えはありますか。

川端:いや、こういうのはないですね。

半谷:話によると、駅で歓迎集会があると花束と絵はがきをたくさんもらって、バッジを付けてもらったとか。

川端:一番求められたのはバッジでした。そしたら、慣れてる男がいて、近所の小学校や中学校に行って、これこれでバッジを頂けませんかって言って、大量のバッジをもらってきて、それを配った。

梅津:じゃあ、友好祭と全然関係ないバッジを〔向こうで〕配った。

川端:すると、また向こうの人たちがみな喜んで、日本のデッサンですから、そう悪いものはないしね。これからの教訓にしようなんて言ってましたよ。やったことはないですけどね。とにかくああいうものは好きですね。

半谷:こういうバッジは好きですね、確かに。

川端:Знакとか、значокとかね。

(6)ホテル

半谷:モスクワの宿泊された場所は、当然覚えてらっしゃいますよね。今のヴェーデンハーの辺りだと聞いてますけど。

川端:オスタンキノ。

梅津:どなたとご一緒だったんですか。

川端:いや、部屋は1人です。

梅津:1人部屋だったんですか。

川端:ええ。

半谷:他の方も? 通訳は。

川端:通訳部屋は。

梅津:じゃ、通訳は別待遇ですね。

川端:建ったばかりみたいで、清潔なところでした。

半谷:ご飯はバイキングだったとか。食事は良かったと聞いてますけど。

川端:いや、だからこんなことでいいのかなって。それから、いろんな物をくれるんです。ちょっとほほ笑ましいですが、こういったものもあるよっていうデモンストレーションなんでしょうね。われわれから見れば、さほど高級じゃない物のセット。石けんをはじめとして、セットになってるものをくれる。やはり物資が乏しい時代だったんだと思いますね。

半谷:その中で無理をして、外国人向きにはいい物を。

川端:そうです。こんなにあるよって見せつけるところがあったかな。ただ、これはその後モスクワ大学に私が留学した時もそう変わっていない。

半谷:10年ぐらいたってもあまり変わらない。

川端:全く変わってない。よく系統的になってるだけです。要するに、散歩に出るなら必ず袋を持って行く。そうして、行列があると何であれとにかく並ぶ。だから全く同じ生活。生活のレベルが全く変わらない。

半谷:ちなみに日本と比べてこの時のモスクワはどうですか、生活水準。

川端:日本もそう豊かじゃなかったし、そんなに落差は感じませんでした。

梅津:同じぐらい。

川端:ええ、同じようだなと。

半谷:問題は、そうすると日本が、モスクワ大学に留学される10年くらいで、かなり上がったわけですね。

梅津:ソ連が変わらずに日本が上がっている。

半谷:そうなるとちょっと格差がある気がします。

梅津:8年後に行かれた時には、だいぶ日本との格差をお感じになった。

川端:ええ。

半谷:そういうことなんだ。

(7)スターリン批判の影響

梅津:実際にモスクワに行かれて、ソ連の社会状況はどう見えましたか。

川端:それは帰りの閑散たる状況と比べると、動員された場合、きちんと動くのは田舎だけで、都会は非常に批判的な雰囲気が満ち満ちてるっていう感じでした。

半谷:言葉が分かると特にそうでしょうね。

川端:ええ。

梅津:何に対する批判的な。

川端:政府ですよ、それは。いわゆるおかみですよね。

梅津:そのぐらいはロシア語がおできなった。

川端:まあ、その頃はね。

半谷:今まで話を聞いたのは、ロシア語ができない方ばかりで、街頭で何を話してるとか、そういうことが一切ありません。見たことだけなので、こういう話にならないんですよね。

梅津:そこにスターリン批判後のソ連社会を感じ取ったわけですね。

川端:ええ。僕とか根岸さんとか、そういうことに多少関心がある人は、皆そういうのを感じ取ってると思います。

(8)参加した集会

半谷:あと専門の話でいうと、あちらで誰か文学者に会うことはなかったですか。

川端:それはなかったですね。

半谷:そうですか。杉山金夫さんが、ドゥジンツェフに遭遇したと書いていました〔杉山金夫『モスクワ見たまま』30ページ〕。久野さんが日本で「パンのみによるにあらず」を訳して出した直後で、あれがそのドゥジンツェフだよと言われたと。

梅津:文学関係のイベントには参加されなかったんですよね。

川端:それは回ってこなかったですね。

梅津:残念ですね。

半谷:ちなみに回られたというか、通訳させられたのはどういう集まりですか。

川端:今、何を訳したか覚えてないんだね。

半谷:こういうプログラムはありますが。

川端:こういうのはもらいました。

梅津:もらいましたか。

川端:ええ。すごいもんですよね、これ。

半谷:すごいです。これだけあったら1人の人間では把握できない。

川端:懐かしいね。

半谷:これは配られたんですか。

川端:配られたと思いますね。それでまた動いたはずです。

半谷:でしょうね。何をお探しで。

梅津:日本語の簡単なプログラムがありましたよね。

半谷:ありましたね。あれは誰が訳したのかな。いろいろ集めたんですよ。

川端:立派なもんですね。

半谷:いや、なかなか難しいんです。これなんかは事前に出たプログラムです。ちょっと読みにくいですが、これだと5月ぐらいかな。5月か6月ぐらいにこんな告知が。ありました、それですね。

川端:文学ゼミナールはちゃんとあったんですね。

半谷:一応あるわけです、文学の催しは。

梅津:もしかしたらと思ったんですよ。

川端:農村青年の集い。農協の人がたくさんいましたからね、こういうのがちゃんと組まれてたんだね。

半谷:先生、カメラは持って行かれたんですか。

川端:持って行ったと思います。

半谷:写真は残っていないですか。

川端:アルバムはあったんですが、引っ越し引っ越しやってるうちにどこに入ってるか。今度のことがあるのでいろいろ調べたんですけど、全部埋もれちゃって。

梅津:どこかの箱に入ってるんでしょうね。

川端:入ってるんでしょう。もう段ボールの山ですから、今。

半谷:そうすると、さらに難しいかもしれませんが、あちらに行った人はみんなロシア語の本をもらって帰ってきています、お土産で。そういうのも、もらわれてるんですよね。

川端:ええ、もらったと思います。だけど果たしてうちまで持って帰ったかどうか。ほんと、慚愧ですね。これだけ、50年たっちゃうと。

半谷:分からないと思います。

梅津:日本を中心としたイベントもあります。8月6日の「原水爆禁止・平和と友情のつどい」は覚えてらっしゃいますか。

川端:いや。

半谷:覚えてないですか。

梅津:行かれてないかな。

川端:間に合ったかどうかですよね。非常に遅れたので。

半谷:着いたの自体は2日目なので、行事はあらかた行けるはずです。マネージュ広場でこういう集会をしています。これはカラーの写真で、白黒のがどこかにあるはず。こういう形でみんなで「原爆許すまじ」の歌を歌った。この模様を土方さんが通訳をして、長崎の被爆者が挨拶をしたらしいんですが……。やはり行くところが違うんですね。

【中略】

(9)その他モスクワでしたこと

梅津:閉会式には参加されてますか。

半谷:8月11日です。大規模なマスゲームをしてやってます。

川端:それは出てないかな。

半谷:日本代表団の多くは閉会式の最中にモンゴルに行くかどうかで激論を交わしていたらしいんです。先ほど言った、団体で行動すべきだと労組が締め付けて。

川端:そういう議論ばっかりやってたようですね。

半谷:それには基本的には参加されてないですね。

川端:それはもう、われわれ職能集団は別ですから。

梅津:どこかに派遣されていた可能性は高いですかね。

川端:うん。

梅津:ご自分で観光に行かれた所、どこか覚えてらっしゃることはありますか。

川端:どうかな。とにかく私に関して言えば、暇だった記憶しかないです。

半谷:幸せですけどね。

川端:待機はしてましたけど。

半谷:ホテルで待機ですか。

川端:ええ。

半谷:ホテルで待機なんですか。

川端:そうです。いろいろ気を利かして案内してくれる人もいましたけど。

梅津:それはロシア側の。

川端:ロシア側の。

梅津:2人でどこか出かけてとか。

川端:ええ。

梅津:そういう時にロシア語で会話するチャンスはあったと。

川端:そういうことね、唯一。まあ、2人だけだったらおのずと限られた言葉で。

梅津:一般のロシア市民と会話される機会はなかったですか。

川端:それはなかなかないですね。向こうのほうから寄ってこなかったですよ。

半谷:寄ってこないですか。

川端:ええ。寄ってくるとすれば。

半谷:何か意図がある。

川端:闇ドルを買うやつとかね。これは割と大胆で、いろんなとこに入ってきます。こういうのはまた顔が利いてて、取り締まりの対象にならないみたいですね。

半谷:話を聞いた人には一般家庭まで行った方もいます、何人かは。言葉ができないなりに話をしたと。

川端:そのつもりでいれば行けたかもしれませんね。そういうことをその時は考えていなかった。

半谷:考えてなかったですか。他の通訳仲間でもそういう話は。

川端:ないですね。

梅津:では先生の場合は、仕事という感じでいた。

川端:そうなんです。

半谷:ホテルで待機っていうのがみそですね。

梅津:もったいなかったですね。

川端:いや、ほんとはもっと歩きたかったよね。

梅津:残念ですね。

半谷:あと、その頃、日本に手紙を書かれました?

川端:いや、書いてないです。

半谷:書いてないですか。

川端:ええ、書いてないと思う。

梅津:はがきを買ったりもしてないんですね。

川端:してない。

梅津:お土産を買って帰るのはどうですか。

川端:あんまりこちらにとって魅力的なものがねぇ。

梅津:魅力的じゃなかったわけですね。

川端:それに物不足だし。

半谷:ちなみにあちらにいる時は、懐具合はどうだったんですか。

梅津:現金はお持ちでしたか。

川端:ええ、それなりに。

梅津:それは支給されて。

川端:いや、それはない。

梅津:じゃ、ある程度は持って行かれた。

川端:そうですね。いろいろと世話を焼いてくれる人がいて、任せっきりでした。

梅津:その世話を焼いてくれる方っていうのは。

川端:個人的に。

梅津:個人的に、日本で?

川端:日本で。だから、よく行けたもんだなと思う。

梅津:カンパをもらって持って行ったのですか。

川端:支えになる団体があるにはあります。

半谷:でも先ほどおっしゃったように1人でしょう。

川端:通訳団があって団長がいるというわけではないです。まあ、ずっと辿ればよっぺいさんのほうに僕は行くわけですけど。

半谷:やはり不思議な組織ですね。

川端:これよく成り立ってたと思いますよ。日本人だからこんなのでできたんですよね。

半谷:何かみんなでとにかくワーッと。

梅津:土方さんの下に諸団体がぶら下がっていた感じなんですかね。

川端:私の理解ではそうですね。結局ロシア側の意向があるわけで、それを忠実にどうこうすると。もっとも岡安氏、非常によくしゃべる人ですけど、その話によると、よっぺいさんがロシア語やフランス語を自由にこなしながらワーッとしゃべると、せせら笑ってるらしい。あのロシア語じゃ何言ってんのか分かんないって。聞いてごらん、何言ってるか分かんないよって。

梅津:でも電話されてたんですよね。

川端:それはそうですね。まあ専門家は怖いですよ。岡安、久野っていうようなところですかね、通訳できたのは。

(10)レニングラード観光

半谷:あとは、レニングラード観光があったようですが。

川端:行きました。

半谷:これは完全に観光で。

川端:ええ。通訳〔の仕事〕もなしです。僕はもう感激しましたね。

梅津:どこに感激されて。

川端:要するにネヴァ川を見るだけでも。

半谷:ロシア文学の世界ということで。

川端:人と会うのはなかったですね。

半谷:読んできた文学の現場ということでは、そういう感激はモスクワではなかったですか。

川端:モスクワではなかったですね。

梅津:仕事で時間がなかった。

川端:意外に制限されていたんですね。

半谷:ホテルと仕事、人の付き合いは集会しかなくて、それがレニングラードに行くと一応自由で、ネヴァ川を見たり、文学に出てくるいろんな建物や通りを歩くと。

川端:ドストエフスキーがここを歩いたんだなとかね。もう見てるだけ満足。人と話をする必要は全くない。

半谷:それはよく分かります。

梅津:単独で行動されてたんですか。

川端:それはないですよ、単独っていうのは。

半谷:みんなでバスで行く。

梅津:そこに一応、付いて行きながら、ひとり悦に入っていた。

半谷:例えばエルミタージュに行ってるはずですが、エルミタージュよりもある意味、ネヴァ川のここにいるんだという……。

梅津:ネフスキー大通りだとか。

半谷:やはりそこは文学の人ですね。

(11)帰りのシベリア鉄道

半谷:で、そこから帰ってくる。

川端:ひたすら帰る。

半谷:レニングラードから、ひたすら電車で。さっきのお話だと、もう途中の歓迎はなく。

川端:ない。全くないです。

梅津:人がまばらで、ぼーっと見ている。組織しているのとしていないのとは全然違うという話でしたね。

半谷:帰りは何をされてたんですか。

川端:帰りは、通訳同士は結構仲良くて、小沢さんは別ですけど。結構、いろいろ楽しみはありましたよ。

半谷:何をされてました?

川端:何してたかな。

半谷:文学の人がロシアに行ったとすると、例えば本屋で本を買って、それを読んでるとか、そういう想像もできますが、それはなかったですか。

川端:本なんて買えませんでしたね。本屋に行って本を見るなんて、なかなかできなかった。

梅津:本屋は行かれてないですか。

半谷:でも何をされてましたか、後半は。寝る、食べる以外だと。

川端:そうですね。結構な日があったわけですけど。

半谷:ありましたね、1週間以上。しゃべっているのもあるとは思いますが。

梅津:シベリア亭っていうのが。

半谷:寄席をやっていたと、他の参加者の方が。一芸を持ってる人が集まって、漫談をやったり。

川端:それは残念ながら誘われなかったですね。

半谷:そうですか。

梅津:じゃあ、割と離れたコンパートメントに。

半谷:列車1台貸し切りで、十何両か動いてるって話ですけど。

川端:そう、同じやつがずーっと1カ所で3〜4時間止まって、また動くっていう。

半谷:その列車内で行き来をしたりとか、そういうことはなかったですか。

川端:それはありました。

半谷:食堂車に行って帰ってくるとか。

川端:運動量はありましたよ。止まった時にはずーっと歩いて行くことができましたし。みんなパジャマでね。なぜかロシア人も乗ることがあって、みんなパジャマなんですよね。乗った途端にパジャマなんです。船に乗ってもパジャマと制服っていう。

半谷:ちなみにその後シベリア鉄道は乗られました?

川端:その後は乗りません。

半谷:あの時だけですか。

川端:ええ。

半谷:私も一度だけですけど、何と言うか、非常に時間の感覚が狂うなと思いました。

川端:狂いますね。だから通訳なんていう、悪い仲間じゃなかったんですよ。非常にいい思いをしました。

梅津:帰りも通訳のお仲間とまとまって過ごしていたと。

川端:ほとんどそうですね。

半谷:仕事はなかったんですか、帰りは。

川端:ないです。一緒に、写真家の田沼さん、いろんな国の子どもなんかをよく撮ってる人。結構そんな人も混じって。

半谷:あの方とは仲が良かったんですか。

川端:仲が良かったですね。

半谷:田沼さんは、今でも元気に活躍されてますね。やはり写真家の特徴でしょうか、ロシア人のお宅に入り込んで騒いだと書いてらっしゃいました〔「MOSCOW 唖の旅」〕。他に誰か旅行中に親しくなった方はいらっしゃいます?

川端:やじ馬で、演劇やバレエの連中のところに遊びに行ったりしました。みんなニコニコして元気そうでしたよ。東欧に行き損なった人たちも。

半谷:あとは、日本の代表団が賞をたくさん取っています。これについては何か聞かれてます?

川端:いいえ。

半谷:日本の代表が4つか5つぐらい金賞を取ってるんですが、これは印象がないですか。

川端:印象がないですね。

梅津:もしかすると初めてお聞きになる。

川端:ええ。われわれの立場は一歩、こう。

半谷:違うんですね、やはり。

川端:仕事ですからね。表に行ったらはた迷惑とまでは行かないけど、仕事じゃないのに何で来てるっていう感じになりますのでね。退屈はしませんでしたけど。

半谷:冒頭にも言いましたが、一人一人見ている世界がかなり違うんですね。

川端:その後もなぜ集まらなかったか今考えると不思議な話で。そう仲は悪くなかったわけだから。

【中略】

(12)帰国後

半谷:となると、帰国後すぐ解散ですね。

川端:そうですね。通訳団は解体です。

半谷:新潟に着いた時点で。

梅津:上野までは一緒かもしれないですが。

川端:そう。

梅津:その後、モスクワはどうだったんですかと周りの方から。

川端:それは聞かれました。その時はきちんと記憶があってしゃべってるんです。ところが、アルバムが手元にないことに象徴されるように、全部どんどん風化してきちゃって。私の場合、何年か後にモスクワに行ってますでしょう。時々混じっちゃう。

梅津:記憶が更新されてしまう。

川端:時々自分で自信がなくなっちゃうことがある。

梅津:いつ見聞したことなのかっていうのが。

川端:ええ。

梅津:それは仕方ないですよね。

半谷:帰ってからお話をされるのは、友だち同士はあると思いますが、何か正式な場を設けてそこでしゃべってくれというのは。

川端:ないですね。

半谷:ないですか。

川端:あんまりそういうのはね。お招きがあったら行きたかったです。

梅津:残念ながらお招きはなかった。

川端:なかった。こっちからお招きすることもない。ほんとそういう、だから、ある集団がつくられて目的を遂行して、日本的な、上に乗っかっているだけ〔の集団〕。続かないんですね、性格として。

半谷:続かないですね。ソ連側のもくろみは、何かをやると、それが一つ核になってうねりが起きるんじゃないかと思ってたのに、そうじゃないですね、日本では。

梅津:なってないですね。

川端:確かに旅券闘争なんていうのは、相当熱が入ってました。これでもって行けなくなって終わっても、一つ事は終わったんだって僕なんかは思ってました。

梅津:そのぐらいエネルギーを要した。

川端:ええ。そう熱心に参加したわけじゃないけど。

半谷:だから、ソ連がいろいろ仕掛けて確かに機能はしたけど、続かなかった。

川端:そうですね。まあ、安井〔郁〕さんはその後〔1958年5月に〕レーニン賞をもらって。

梅津:ソ連に行かれてますね。

川端:そして、そのお金が奨学金みたいになって彼女〔安井侑子〕は留学するわけです。だから彼女の伝記のほうが面白いかもしれない。結婚もしましたし。日本人のロシア研究者で彼女に熱を上げて大変だったとか、そういった話は無数にあります。どこまで彼女が書くかですね。

半谷:まあ、回想録は全部は書かないものでしょう。川端先生、ちなみにこの話をされたことは今までありますか。

川端:いや、ありません。

(13)友好祭に参加して感じたこと

半谷:そうですか。大きくいろんな人が関わった話なんですが、なぜ語られなくなったのか疑問に思ってるんです。調べてみればみるほど大きな話なのに、現代にまでつながっていないのはなぜなのかとずっと思っています。

川端:ほんとに今こそ深刻に思いますね、それは。やはり人生の貴重な一部だったはずなんだよね。

半谷:これは先生、ご自身の人生で見てやはり大きい出来事ですか。

川端:大きな出来事でしたよ、それは。

半谷:その後、これによって何か変わられました?

川端:そうですねぇ。僕は、あってはならぬというか、異常の話として、例えば派遣団の中で社会党や共産党の人たちが牛耳ってるわけですけど、それがのさばっている現実に、正直言って震えおののきました。こんな連中が浮いた沈んだみたいに民衆を牛耳ろうとしている構造ですね。そういうものを目の当たりに見ちゃったわけです。矛盾として感じないのだろうか、一致団結して帰ろうなんて笑わせるよね。ほんとうの意味での自由っていうものの侵害でしょう。だけど、ソ連に行きたいと主導した人たち自身とあんまり差がないんでしょう、そういう連中は。極めて明白な党派的精神に満ち満ちてるでしょう。

梅津:一番強く印象に残っているのが、その党派的精神ですね。

川端:党派的なものです。だから500名が150名になり、うんぬんっていう、その過程も。よくぞ実現したと思います。

梅津:50人ぐらいしか行けなかったかもしれないですものね。

半谷:ご自身の専門に関わるところでは何かありますか。先ほどネヴァ川を見て感激されたという話がありましたが、その後に何度も行かれてますよね。

川端:もう一回行ってますからね。案外、日本と違って空気が変わらないんです。パリも50年ぶりに行っても変わんないですよ。日本の変わり方は、特に鎌倉の変わり方なんてひどいもんですけど、そこがやはり驚きですね。

梅津:変わらないことが。

半谷:ヨーロッパという文化のありようは。

川端:ええ。建築に表れたもので言えば。

【中略】

梅津:プラハとパリの後でもう一度モスクワに行かれて、比較されて、あらためてモスクワについてはどんなふうに思われましたか。

川端:やはり東京以上に大きな田舎っていう。何度も戦乱に遭ってますしね。

半谷:そういう意味でいうと、モスクワとペテルブルクだと、ペテルブルクのほうがしっくりきますか。

川端:いや、そんなことはないです。まあ、2つの首都があるっていうのは、そもそも構造からしていかにもロシアらしい。

【中略】

(14)友好祭をどう歴史化するか

半谷:こんなもんですか。何かまだありそうな気もしますが、さすがにここまで来ると疲れてくるので、お互いに。お疲れさまで、ありがとうございます。先生、お体のほうは大丈夫なんですか。先ほど歯の話はありましたけど。

川端:もう年相応に。ほんとに放っとくと空気が抜けちゃって何言ってるか分かんない。

半谷:でもこの町だと坂が結構あるから、足腰は大丈夫。

川端:大丈夫です。

半谷:そうなりますね。

梅津:それを伺ってちょっと安心しました。

半谷:足腰が衰えると、ちょっとつらい。こうやって話を聞くと思いますが、文字の記録になってないことがたくさんあります、人々の記憶の中だけにあることが。たどっていくとそれなりに面白い話が聞けますね。

川端:だけど大変なご苦労で。

半谷:というか、これが形になるかどうかが非常に不安で。面白いんですが、焦点が定まらない。

梅津:研究として成立するのだろうかという疑問がなかなか抜けないです。

川端:いい記録者ってのがいてくれればなという気がしますね。

半谷:もう一度、戻りますが、このお祭りが大事なことだとは思っています。でもこれをどう位置付けるのかが、最後までまとまらない。いまだに方針が見つかりません。何人かのお会いした人にとっては非常に大事な出来事で、それによってその人の一生が変わったんだとか、そういう個人的な面白い話はあります。でもそれは一人一人の出来事なので、もう少し一般化して、こういう大きな出来事があって、日本人が150人行って、それで日露関係に何か痕跡を残さないはずがないのに、なぜか分からない。

川端:ロシアにとってがかなりの意味を持ってたからこそ、〔友好祭は〕ずっと開かれ続けたわけですよね。そういったものが、個々の国にどういう影響を与えたのか。それから、招かれて行った個々の国の影響は、他の国の受けてる影響と比較してもあまり意味がないと思うんです。だから、ロシア中心に戦略としてこういう事業がずっと続けられたことを追究する意味はあるし、それから、招かれた国がどういう具体的な影響を当座持っていたかも対象とすべきだとは思いますが、これをさらに広げて全体的効果ってなると、もう薄まっちゃいますね。

半谷:という意味では、効果があったところに絞って、焦点を当てて記述という。

川端:だから、1つの派遣団の中の集団が、具体的にどういう影響をその後も持っているのか。何とか会みたいな組織にする、そういうのは非常に興味深い。追いかけることができますよね。だけど、例えば通訳団なんていうのを対象にしたら、これはまとまらない。

半谷:ただ、お話を聞いて思ったのは、見てるものが違うので、1つの出来事を多角的に見ることは必要なんです。今日のお話は特にそうでしたが、ある人にとってものすごく重要に思えてたことが、実は全然大したことがないとか、誤解をしてるとか。特に言葉ができるできないで見える世界が全然違ってきます。だから今日のお話で、言葉ができる人が見た場合にはこういうふうに見えるんだと非常に参考になりました。

梅津:批判的な言葉も聞こえてきたというのは、今日初めて伺ったことですし。

半谷:でも、これぐらいにしたほうが。もうさすがにお疲れで。

梅津:ほんとに長々とありがとうございました。

川端:もう少しこっちも整理して、物があれば変わったんでしょうけど。

梅津:また何かもし思い出したことがあったり、出てきた物がありましたら。

川端:ええ、急がずに調べてみます。

半谷:ありがとうございます。

梅津:ありがとうございました。